最終話 Near Evergreen - 2/6

かわいい君

「じゃあ、朔夜さん、皓汰、また明日」
 立ち去ろうとする侑志をとっさに引き留めた。
 声を出せず学ランの裾をつかんだ朔夜を、侑志は目を丸くして見下ろしていた。普段は涼しげな母親似の目許。見開くと途端に幼い。
「大事な話があるから、上がって。ちょっとだけ」
 朔夜の片言の説明がおかしかったのか、侑志は目を細めて頷く。
 表情の作り方ひとつひとつが繊細で綺麗だ。朔夜は他にこんな人を知らない。もし母から何か引き継げるなら、写真の腕を譲り受けて彼の美しい瞬間を片端から永遠に変えていきたい。
 朔夜が笑顔に見惚れている間に、皓汰は侑志の右肩に手を添え何事か耳打ちした。少し背伸びした身体をすいと引く仕種は、朔夜よりよほど色気がある。
「皓汰、何だって?」
 先に上がっていく弟を横目に尋ねると、大したことじゃないですと侑志は肩をすくめた。
「帰る前に顔出してって言われただけです」
「最近そうやってコソコソ何かやってんよね」
「別にそんなこともないですけど」
 付き合い始めこそ遠慮していた皓汰も、飽きたのか慣れたのか近頃は平気で隣を歩く。のみならず、隙あらば侑志を持っていこうとする。親友を取られて退屈なのは解るが、そっちは同じクラスでずっと一緒のくせにずるい。
 玄関で言い合っても仕方ないので、縦に並んで階段を上がった。侑志は和室や皓汰の部屋には気軽に寄るけれど、朔夜の部屋のドアをくぐったことはない。
 今日は絶対に皓汰の邪魔が入らない自室で、と朔夜は決めていた。皓汰と違い、朔夜は普段から部屋を散らかさない。昨日雪枝と別れて帰宅した後でも掃除の時間は充分にあった。散らかってるけど、という前置きは単なる謙遜だ。
「お邪魔します」
 本日二度目の挨拶をして侑志が朔夜の部屋に踏み込む。主が目の前にいるのに忍び足だ。女子の自室は初めてだろうか。あの子の部屋には入らなかったのだろうかと、またよく知らない少女と自分を比べてしまう。
 いけない。首を振り、朔夜はなるべく明るい声を出した。
「何だよ固まっちゃって。意外と片付いててビックリした?」
「いえ、その。……ホントに好きなんすね」
 侑志の声は強張っている。カレンダーやポスターの野球選手に嫉妬でもしているのかと思ったら違った。視線の先は球団マスコットの特大ぬいぐるみだ。
「かわいいじゃん。スラィリー」
「朔夜さんがそう思うのは否定しないんですけど俺それだけはどうしても同意しかねるんですよ」
 他人の価値観をあまり否定しない侑志が、本人相手にここまで言うのだから相当許しがたいのだろう。しかし朔夜もここを譲る気はない。これ以上言い募ればケンカになるのはお互い解っていて、座布団を勧めたり礼を言って座ったり紋切り型のやり取りをした。
「それで、侑志。話なんだけど――」
 長引かせても気まずいだけだ。朔夜は何度も頭の中で繰り返した台詞をどうにかこうにか口にする。
「今度の休みに、二人きりで出かけない?」
 そのたった一行で三回噛んだ。消えたい。
 侑志の頬は少しずつ赤らんで、眉間には細いしわが寄った。伏せたまつ毛の落とす透明な影に、朔夜の胸は締めつけられる。
 こんなに悩ませるようなことを言ってしまったのだろうか。今からでも撤回した方がいい?
 侑志は朔夜を向き、眉を緩やかに解いてふっくらと口角をくぼませた。
「ちょっと悔しいです。俺から誘おうと思ってたから。でも朔夜さんも同じように考えてくれてたって、それはそれで嬉しいなって」
 一度縮んだ心臓がやかましく膨らんで跳ねる。
 朔夜は腰を浮かせて侑志を強く抱きしめた。
 春を待つ桜の枝のようにいじらしい。重荷なんて押しつけたくない。一緒に折れてしまいそうに繊細だもの。
 侑志の大切な肩が、背中が硬くなっているのを指先に感じる。朔夜は顔を近づけ、初めて自分から彼に口付けた。侑志の乾いた口唇が震えて、探り探り朔夜の保湿した口唇をついばむ。表面をそっと触れ合わせるだけだった今までのキスとは明らかに違う。
 朔夜は歯の隙間からそろそろと舌を出す。めぐみに借りた漫画のようなキスをしてみたかった。息をつく間もない情熱的なやりとりを。舌先が届いた瞬間、侑志は乱暴なくらいに勢いよく朔夜を抱き寄せた。熱くてやわらかい塊が口の中に入ってくる。朔夜はきつく目を閉じて身を委ねる。
 最後までするのはよそうなんて、優等生な申し出に頷いたりするんじゃなかった。ずっと親友のオススメを貸されるままだったBL漫画も、最近は『年下攻め』をリクエストしてばかり。甘い台詞は必ず同じ声で聞こえてくる。
『本当は期待していたんでしょう?』
「すみ、ません。その、がっつい、ちゃって。気をつけます」
 現実の彼はここが引き際。忘れてほしいと言いたげに真っ赤な顔を押さえる。
 今の朔夜は彼を『大人』にも『男』にもできない。かわいい『少年』をただそばに置いているだけ。
 こんなに大事にされているのに、急に引っぱたきたくなった。
「皓汰呼んでるんでしょ。行きなよ」
 さりげないはずの言葉は自分で思うより冷たく響いた。
 するりと外れていく大きな手。リップクリームの移った口唇は何か言いたげに息を吸い、けれど結局無言で弧を描く。
 許しを請うような色の瞳。勘違いの優しさを朔夜は訂正しない。
「場所とか時間、また後で相談しましょう。失礼します」
 侑志は丁寧に頭を下げ部屋を出ていった。
 朔夜は息を吐いてベッドにもたれかかる。
 失礼します? 恋人にする挨拶がそれか。侑志は二人きりのときでさえ敬語のままだ。朔夜がいくら声を張り上げても、見えない壁の向こうに届く言葉はきっと半分にも満たない。あちら側には皓汰が、琉千花(るちか)が、あの少女がいて、朔夜には聞こえない話をしている。
 ぬいぐるみを手繰り寄せて顔を埋めた。緑がかった深いブルーの体毛にカラフルなたてがみ、大きな目玉に長い鼻。確かに侑志の好きな白い獅子ほど凛々しい見た目ではないけれど、愛嬌も愛着もあるマスコットだ。
 ――侑志の家で見た彼女はとてもおしゃれだった。服にうるさい侑志の隣だって堂々と歩けるだろう。
 皓汰と共有できるかどうかで服を選んできた朔夜は、女性服の探し方が分からない。修学旅行前に買った『おしゃれ』を意識したシャツだって、侑志から見たら許しがたいほど『ダサい』のかもしれない。このマスコットみたいに。
 誘ったばかりのデートが早くも憂鬱になってきた。ぬいぐるみの前足をぐにぐに握りながら考える。
 受験生の雪枝をこれ以上付き合わせるのは悪いし、めぐみのファッションセンスは二次元的だから侑志の趣味ではなさそうだ。琉千花もよくかわいい服を着ているけれど、あれは背丈もかわいらしい子が着るからかわいいのであって……そもそもフラれた男とのデート服を選んでもらうなんて鬼畜すぎる。
「もう八名川とかに頼むしかないかな」
 ぬいぐるみに虚しい同意を求めたとき電話が鳴った。
 野球部関係者の着信音だ。画面に『富島(とみじま)彩人(あやと)』と表示されている。
「もしもし? ――え、去年の壮花(わかきはな)とのスコア?」
 富島はまだ部室に残っているようだった。去年の練習試合のスコアが一部欠けているという。他の連中はすっかり休みムードなのに、富島は既に次の春の支度に入っている。朔夜も浮かれ気分を封じてマネージャーの心構えになる。
「そこの棚になかったら分からん。エクセルデータでよければ手元にあるかも」
 朔夜はぬいぐるみを抱えたまま部屋を出た。パソコンは皓汰の部屋に一台とリビングに一台。リビングのものは父と朔夜が共有している。
「趣味でまとめてるだけだから役に立つかは知らないよ。分かった、持ってる分だけ送る。前に聞いたアドレスでいいんだろ」
 朔夜は階段を下りてリビングの扉を開ける。父はまだ帰っていないようだ。延長ケーブルで無理やり左側に置いてあるマウスを操作する。
「あー、サイズでかすぎるな。今圧縮する。ZIPでいい? 礼? 部活のことだしむしろこっちが言いたいぐらいだけど。いやちょっと待って」
 朔夜は入り口のドアを振り返る。誰もいない。ぬいぐるみをぎゅっと胸に押しつける。
 本当はこんなことを頼むべきではない。先輩が年下の男の子相手に。けれど富島は侑志と同じ一年生で、半年以上朔夜の球を受けてきてくれた捕手だ。
 通話口を囲う手に力がこもった。
「あのさ。どうしても聞きたいことがあんだけど」