15話 Never Never Never Surrender - 2/10

仕切り直しも何度目

 九月半ば。
 文化祭も終わり、ようやく部室にも秋が訪れた。
「はいじゃあ各々遺恨はないねー? 坂野(さかの)ちゃんとか、新田(にった)ちゃん殴っとかなくて大丈夫? 一発ぐらいならいいんじゃないかって新キャプテンなりに思いますよ」
「いいよ昭和じゃあるまいし。新田も『どうぞ!』みたいな顔やめてくれる」
 八名川・坂野両先輩は、他の部員たちの前で互いを小突き合っている。一時期険悪だったのは無事解消したようだ。侑志(ゆうし)は差し出し損ねた頬を緩め、多大な迷惑をかけた二人に頭を下げる。
 侑志と朔夜(さくや)はよく話し合い、互いの関係をはっきりさせることにした。すなわち『真剣交際』。遅かれ早かれ知れることだと、今回は最初から皆に申告している。慌ただしい朝ではなく、放課後の部活前に時間をもらった。
「部活中は今までと変わんねェよ。二年としてマネジとして、お前らもこいつも同じように面倒見る」
 ジャージ姿の朔夜は簡潔に方針を述べる。例の期間中に、坂野への扱いが他と違ったことを気にしているらしい。
 侑志は挙手して一歩前に出た。
「体調のことも含めて、ここ一ヶ月ずっと迷惑かけどおしですみませんでした。言葉で何か言って戻せるものでもないから、精一杯行動で返して」
「あーもう、そういうのいいの」
 八名川が強引に遮る。長袖に覆われた腕を持ち上げ、ばつが悪そうにこめかみをかいている。
「体調の話はしない。それ持ち出したらこの部、キャプテンとエースが一番土下座しなきゃいけないんだから」
「しますか? できれば綺麗な床がいいです」
 永田(ながた)がふてぶてしく言ったものだから笑いが起こって、侑志は慌てて口を押さえた。いけない。当人が笑うのはさすがに調子に乗りすぎだ。
 とん、と背中を叩かれ振り返る。皓汰(こうた)が呆れ顔で見上げてくる。
「そういうとこ。もういいんじゃないの、戻っても」
 侑志はかえって口唇を引き結んだ。この部は優しくて、甘くて、すぐ許されてしまうから気を抜くと泣いてしまう。
「ねぇ~、それよりそろそろ着替えたいんだけどぉ。いつまでいるの、朔夜ちゃんもるっちも男のコの園に居座るなんてえっちぃ」
 八名川が裏声で身をよじらせる。朔夜は慣れた様子で片手を挙げ、琉千花(るちか)は無言で八名川の腰に正拳突きをしてから出ていった。
 八名川も女子からの仕打ちを引きずらず真面目な調子に戻っている。
「監督たちには今の時間のこと話通ってるけど、忙しいとこ待たしてるの事実だから早めに動いてね。はいさっさと脱いで着て」
 森貞(もりさだ)といい八名川といい、いつ見ても鮮やかな切り替えだ。あれが主将に求められる資質だとしたら、侑志は来年務め上げる自信がない。
「なぁにぃ新田ちゃん、こっちじっと見ちゃって。オレの裸見たいの?」
 Tシャツを脱ぎかけていた八名川がにやにやと振り返る。いえ、と侑志もマネージャーにならいテンションを合わせず答えた。
「アンダー、家から着てきたんすか?」
 普段は半袖のワイシャツ一枚なのに、今日の八名川は半袖Tシャツの下に野球部指定の深緑のアンダーシャツを着ていた。レイヤードスタイルで決めてきた、というには組み合わせるアイテムがおかしい。
 八名川の柳眉が一瞬寄った、気がした。
「オレ冷房の風当たるの苦手なんよね。アンダーならどうせ後で着るしと思って。ズボラちゃんなのさ」
 普通の顔をして着替えに戻る。見間違いだろうか。
 紫外線で腫れた肌を痛がっていたこともあったし、ああいう人は年中長袖の方がいいのかもしれない。それにしても、あんな厚手の生地では熱中症になりそうなものだが。
「侑志、また余計なこと考えてない?」
 皓汰がすねを蹴ってくる。蹴り返そうとしたら井沢(いざわ)の脚が割り込んできた。
「『それ』を『余計』って呼んじゃったら、新田は新田じゃなくなるのかもだろ」
 知った顔で知ったようなことを言う井沢。よっぽど蹴ってやろうかと思ったが、皓汰が納得した顔で足を引っ込めたのでやめた。

 そんな皓汰も、活動が終わった後は侑志を待ってくれなくなった。
「どしたの? さっきから、ちらちら見て」
 侑志を見守っているのは朔夜一人。声が優しいだけでなく甘い。落ち着かないからさっさと日誌を書いてしまおう。
 鉛筆を走らせながら会話を続ける。
「朔夜さん、たまにそのファイル持って部室うろついてますよね。何チェックしてるんだろうと思って」
「ん? これはマネジの仕事だから侑志は引き継がなくていいよ」
「いやだから、そのマネジがどんな仕事してるかが気になってるんですって」
 あながち嘘でもない。肩書きを得た以上、誰がどんな仕事をどれだけ担っているのか把握しておきたかった。
 立ち上がり、横から朔夜の手元を覗き込む。俺たちと同じぐらい汗かいたはずなのになんでいい匂いすんのかな、というのは深く考えない。朔夜さんは俺のこと臭がってるかも、という憂慮はさらに奥に。そっちの対策は帰ってから本気で立てる。
 朔夜がレ点を書き込んでいたのは、何項目にも及ぶリストだった。手書きの文字だが紙はコピーされたもののようで、あちこち枠線が欠けている。用具の点検だけでなく、救急箱の中身、清掃状況、消臭剤の残量、忘れ物、机や棚の安全確認、壁や床の破損の有無……どれも侑志は気にしたことがない。
 朔夜は何故か決まり悪そうにチェックシートを隠した。
「家でやってることの延長。あんまうるさく気にされっと嫌だろ」
「いえ、そこまでいろいろ考えてくれてるの、ありがたいしむしろ嬉しい、ですけど」
「そうなの? 姑みたいで鬱陶しいかと思った」
 朔夜は深く息をついてファイルを抱きしめる。
 どちらかというとお母さんでは? と感じたが口にはしなかった。朔夜に――桜原家の人間にそれを言うのはどことなく無神経だ。
 侑志は咳払いして話を戻した。
「朔夜さんはそういうの、もっと表に出してった方がいいですよ。ここまでしてもらって当たり前、みたいな意識できあがっちゃうとよくないですから。現にみんな気付いてないわけだし」
富島(とみじま)は気付いてるよ。礼言われるし、たまにやっといてくれる」
「それはあいつが家事やるからでしょ!」
 けろっと答えられてついムキになってしまった。もっと家の仕事をちゃんとやろうと心に誓う。そつのない富島をやっかんでいる場合ではない。
 なんかなぁ、と朔夜は目を伏せて、ペンを持ったままの左手で髪を耳にかけた。
「そりゃ気付いてくれたらちょっとは嬉しいけどさ。これくらいのこと、わざわざ恩着せがましく言うのなんかヤなんだよな。当たり前のことしてるだけじゃん」
「朔夜さん」
 侑志は朔夜の正面に回って腰を落とした。他の相手なら肩をつかむなりしたいところなのだけれど、やはり彼女の肩首には軽率に触れたくない。不安定に揺れる瞳を下から見つめて気持ちを伝える。
「俺、投手は〇点で抑えて当たり前だと思ってるし、打者は点取って当たり前だと思ってますけど、実際そのとおりにできるときばっかじゃないですよね」
「まぁ、野球ってそういうスポーツだし」
「そんで、俺がホントに〇点で抑えたり点取ったりしたら、当たり前だろうが何だろうが朔夜さん褒めてくれますよね」
「それこそ当たり前じゃんか」
 強い調子で反論され、侑志はそっと朔夜の左手を取った。ガラスより繊細で大切な利き手。
「朔夜さんが当たり前だと思ってることって、他人には結構当たり前じゃなくて、大変なことなんですよ。それを少しずつでも解ってほしいんです。百歩譲って当たり前だったとしたって、だから褒められちゃいけないなんてルールもないでしょ?」
 朔夜は複雑な表情をしていた。泣き出す一歩手前のような、怒鳴り散らす一秒前のような、それでいて笑い出す寸前のような。
「どうして侑志って、そういうこと『当たり前』に言えるんだろ」
「当たり前かは分かんないすけど。俺は自信満々の朔夜さんが好きなんで、あんまり卑屈なとこ見たくないです。つまり自己都合っすかね」
 侑志は朔夜の手を放して立ち上がる。と、いきなり胸に頭突きされた。
「日誌。書き終わったんなら鍵返して帰るぞ」
「朔夜さんチェック途中じゃないんですか?」
「いいんだよこんなの暇つぶしなんだから。今度続きやる。いいから行くぞ」
 右手のジャブが割と痛いのだが笑ってしまった。これは多分恋人同士というより、(コーチ)と監督の関係そのままだから。
 鍵を職員室に返して帰路につく。歩くときは自然と侑志が左側になる。とっさのとき彼女に利き手を使わせたくない。
「裏門から帰るか」
 朔夜は首をかきながら呟く。正門を使う方が少しだけ遠回りになる分、一緒にいられる時間が増えるのに。みみっちい本音を口に出せず、侑志も同じく首をかいて頷いた。
 使い慣れない門から続く道は人の気配が少ない。古びた民家に灯りはまだ点らず、商店と思しき建物もシャッターが閉まっている。自分か皓汰がいればともかく、夜のこの道は朔夜一人で帰らせたくないと思う。
 電柱の陰や建物の窓にそれとなく目を遣る。不審者の類はどうやらいない。突然右手をつかまれて何かと思えば朔夜だった。そういうことか、と遅まきながら合点がいって一気に顔が熱くなった。
 朔夜は眉を下げて腕を引っ込めようとする。
「ごめん、侑志はこういうの嫌、だった?」
 言葉で答える度胸もないくせに、侑志は大切な左手がすり抜ける前に、最低限の力で引き留めた。朔夜も俯いて何も言わない。
 頭を抱えて叫びたくなるような沈黙と共に夜道を行く。羽虫の群がる外灯の明滅も今は気安い。汗ばんで貼りつき合う手のひらも、手の甲の血管をふにふにといじってくる指先も、どうしてこんなに胸の温度を変えるのだろう。
「あのさ、侑志」
 朔夜が目を伏せて、途切れ途切れに口を開く。
「今度、部活のない日、侑志の家に行っても……いい?」
「ぅえっ」
 声というよりただの空気が肺からはみ出した。展開が早すぎやしないかと、柚葉(ゆずは)のときのことを棚に上げ半端な常識が頭を駆け回る。
 でもいやまぁ正直恋人同士になったらいつかはそういうことにもなるのかなって想像というか妄想はちょっと、まぁ本音言うと割と結構してたけど、俺はそれが叶っても全然いいっていうかまぁうんいいんだけど、でもそれ朔夜さんがつまりその、
「こないだお邪魔したとき、侑志のお母さんにいろいろお世話になったからさ。ちゃんとお礼しときたいんだけど。なんかすけべなこと考えてない?」
「ないです」
 死にたい。腰を落とし気味なのは、冷たい視線にさらされて身を丸めたせいだと思ってほしい。
「ばぁか」
 朔夜はにやにや笑っている。こういうノリが本当に男子だ。侑志はたまらず顔を背け、早口に尋ねる。
「俺もそのうち朔夜さんち行っていいですか、皓汰に本借りる約束してるんで」
「おう。好きなときに来いよ。皓汰も喜ぶ」
「その言い方監督そっくりなんすけど」
「わざとだよ」
 笑い合ってみたのに、少し胸が寒い。皓汰の名前を出したせいだろうか。
 朔夜と二人でいる時間がずっと続けばいいと思う一方で、この帰り道から皓汰が消えたことがもの足りなかった。