14話 Faker’s Foolish Fest. - 2/10

不文律の自壊

 八月十二日、新田(にった)は部活に来なかった。
 彼の父であるコーチの話では熱中症らしい。昨日のバスじゃ元気そうに見えたのになと、三石(みついし)潔充(きよみつ)は私服のTシャツから顔を出した。
 それよりも今は新キャプテンと新田でない方の副キャプテンだ。潔充は顔を左右にめぐらせる。部室入口側の八名川(やながわ)も、奥の坂野も、ずっと眉を寄せている。挟まれた潔充は肩身が狭い。
「つうかさぁ、朔夜のあの態度なに」
 八名川が木棚を睨みつけて言う。誰に対する台詞なのかは明確だった。広くはない部室は、空気が張り詰めるとすぐに息ができなくなってしまう。
 潔充は部活中の朔夜の様子を思い出して頭をかく。
 今日の朔夜は明らかに変だった。なんというか、女子みたいだった。大人しくサポートに徹して、特に坂野の世話を甲斐甲斐しく焼いて。
 潔充としてはそういうのは琉千花(るちか)のキャラだと思ったし、その琉千花だってあんなに露骨に誰か――多分新田、をひいきしたりはしない。
 そうだ。今日の朔夜はなんだか『コイスルオトメ』みたいだった。
 潔充の右で、坂野が低い声を出す。
「オレ、朔夜さんと付き合うことにしたから」
「あ?」
 八名川が坂野に詰め寄る。潔充が押されてよろめいたのも目に入っていないようだった。
「バカじゃねぇの。なに寝惚けてんだよ」
「寝惚けてない。朔夜さんから申し込まれた。オレが断る理由ないだろ」
「どっちからとかどうでもいんだよ。わかってんだろうが?」
 八名川の言葉遣いがいつもと違う。
 これヤバくない? と怜二(れいじ)に口唇で訴えかけた瞬間、案の定八名川が爆発した。
「こんなん川西(かわにし)のときの二の舞だろうが! 一番キレてたてめェがやらかしてんじゃ世話ねえよ!」
「待って待って八名川(にゃー)、気持ちは解ったから暴力はダメ」
 岡本(おかもと)が身体ごと割り込んで、坂野につかみかかりそうだった八名川を止めた。八名川はまだ息を荒くしている。坂野は無言で帰り支度を整えている。
 っていうか、この状態って後輩に見せてたらまずいんじゃね?
 潔充は一年を振り返る。皓汰(こうた)が殺し屋みたいな形相で歩み寄ってきていた。まずい。
「こうっ」
 止める間もなかった。皓汰の握りしめた拳は坂野の頬を直撃し、坂野は壁にぶつかって倒れる。潔充は慌てて皓汰を羽交い絞めにした。
「ごめんこれオレが止めなきゃいけなかった!」
「いえオレらが止めなきゃいけませんでした! すみません」
 井沢(いざわ)が飛んできて皓汰の身柄を引き受けていく。永田(ながた)が何度も頭を下げている。
「すみません、桜原(おうはら)君は僕らで落ち着かせますから。すみません」
「ほら。行くぞ」
 皓汰は富島(とみじま)に引きずられていく間、抵抗も言い訳もせず黙っていた。坂野も弁明や反撃の類を一切しなかった。
「オレは何と言われても構わない。誰を敵に回しても朔夜さんを守るから」
 さっと立ち上がり、本当に誰の顔も見ないで出て行ってしまった。責めても怒ってもいない、潔充たちのことすら見ず。
 ほんの半月前には三学年がそろっていた部室が、たった四人になる。
 八名川は舌打ちして椅子を蹴った。
「何が守るだよ。しょせん坂野にとってはオレたちってその程度なんだろ」
「にゃーだってそれが本音なんじゃない」
 岡本が苦笑して八名川を着席させる。こういうときの岡本は意外と大人だし、八名川は意外と子供だ。
「坂野ならこういうことにしないと思ったからオレは選んだのに」
「そうだね。サカちゃんは朔夜と野球すること一番大事にしてたもんね」
 ぐずる八名川。岡本は正面にしゃがんで両手を握ってやっている。
「サカちゃんはさ、俺たちより前から朔夜のこと見てた人だもん。ちゃんといろいろ考えてるんだと思うよ。もう少し待ってあげない?」
 八名川は無言で俯いた。潔充は怜二と顔を見合わせ、お互い首を振った。
 潔充たち二年生は、八名川が何を危惧しているのか知っている。
 川西友灯(ともひ)。この三月まで高葉ヶ丘(たかばがおか)にいた同学年の投手で、朔夜とは親友のように仲がよかった。朔夜は事実親友だと思っていたのだろう。二月に川西が、朔夜に恋心を告白するまでは。
 朔夜は激しい拒絶を示した。部活はおろか、しばらくは学校にさえ来なかった。八名川は――潔充の印象では坂野より――憤って、『坂野は必ず朔夜の逃げ道を残していたのに、お前は独りよがりで追い詰めた』と川西をきつく詰った。
 川西は朔夜とも八名川とも関係を修復できないまま、親の都合で転校していった。本人が望めば一人で残ることもできたようだが、そうはしなかったわけだ。
 大抵のことを許してしまう八名川は、いざ怒るときの加減を知らない。
 潔充は八名川に歩み寄って頭を撫でた。細くてやわらかい髪は大きな犬を触っているみたいで気持ちいい。
「にゃー、いいこ、いいこ」
 岡本のように上手く慰めることはできない。怜二のように辛抱強く見守ることもできない。だから潔充は潔充のやり方で友人を労わる。
 気を張りすぎているのか、ここのところの八名川はバランスがとても危うい。鼻をすすり始めたタイミングで、怜二がすかさずティッシュを差し出した。
「ほら。さっさとうち帰ってケーキ食うぞ。琉千花が待ちくたびれる」
 答えない八名川の代わりに、今日何かあるのと岡本が訊いた。怜二は頭をかいている。
「琉千花。誕生日なんだよ」
「へえ、おめでとう。言ってくれれば俺たちもお祝いとかしたのに」
「いや、ちょっと、あいつらもいろいろ間が悪いっつーか」
 歯切れが悪い怜二に岡本が首を傾げる。潔充は八名川の両肩を揉みながら口を挟む。
「ちょうど新田もいないじゃんね」
「あ、ああー」
 岡本も察したようで口をもごもご動かした。兄貴の手前、何ともコメントしづらそうだ。
 今日欠席した後輩の姿を頭に浮かべ、潔充は八名川の張った筋肉をほぐす。
 新田侑志。人が好くてすぐ顔に出る素直な一年生。どう見ても朔夜のことが好きなのに、野球部のこの有様に直面したらどうなってしまうのだろう。
 八名川は潔充の手をやんわり振り払い、俯いたまま立ち上がった。
「ごめん、もう大丈夫。出よう。オレらここにいると一年戻ってこれない」
 顔を見せようとしないのは気がかりだが、今はもう怜二に任せるしかない。
 外に出ると拍子抜けするくらい明るかった。まるで昼、と言ったら言い過ぎか。
 にしたって、まだ全然野球できそうなのにな。
 呟いてみても、一人で部活動はできないのだ。
 岡本とCDショップに寄ったけれど、二人ともちっともテンションが上がらずにすぐ帰った。