13話 My Buddy,My Blood

マイバディ・マイブラッド

 侑志(ゆうし)がどれだけ落ち込んでいようが活動日は活動日である。恐ろしく気が進まないが、部活のために学校へ向かった。
 硬式で夏の甲子園が始まる頃、侑志たちはもう秋の準備だ。
「と、いうわけで大変遅くなりまして申し訳ない! 不肖八名川(やながわ)、本日より野球部に復帰いたします」
 黒板の前で両手を合わせる八名川に、野次まじりの拍手が送られる。
 病み上がりの八名川が、張り切って押さえてくれたのは第一講義室。夏休み中でも冷房の入るありがたい教室だ。文化祭前で競争率が高いのを、どうにか都合をつけてくれたらしい。
「自分で出鼻バッキバキにくじいてしまいましたが、少しずつ信頼を築いていければと思っています。情けない主将ですがよろしくお願いします」
 八名川は一人ひとりの顔を見回した。左手にはホチキスで綴じたルーズリーフ。配布される資料の有無に関わらず、八名川は必ず自分の台本を用意してくる。
「二年の副主将は、学年で話し合って坂野(さかの)輝旭(てるあき)君にお願いすることになりました。じゃあ坂野君から、一言どうぞ」
「八名川に君付けされると鳥肌立つんだけど」
 坂野が憎まれ口を叩きながら立ち上がる。露骨に不満そうな皓汰(こうた)を見て鼻白んだ後、早瀬(はやせ)に文字どおり尻を叩かれて咳払いした。
「えっと、普段のオレを見てたら、チームとしていろいろ預けたいとは思えないと思う……自覚はある。でも野球部は、朔夜(さくや)さんやみんなが大切にしている場所だから、少しでもいい状態で続けられるよう努力する。ので、よろしくお願いします」
 俯いて訥々と言う坂野。よろしくお願いします、と侑志が声を上げると、他の一年も声を揃えた。こういうところが運動部だなと思う。
 八名川が一年に身体を向けて笑った。
「他の二年はみんな、公立中の部活出身だからね。リトルやシニアできちんと指導を受けてきた坂野君から学ぶことは、とても多いと思います。見てのとおり情が深いから、何かあったら親身になってくれるよ」
「そういうフォローいらないから」
「はいはい。一年の副キャプは例年二年の副キャプが指名することになってるんで、坂野ちゃんから頼むね」
 八名川の指が手元の紙をめくる。
 順当に行けば皓汰だろう。あまり上に立ちたがるタイプではないし、野球にも詳しくないから自分がいろいろサポートしてやらねば。
新田(にった)
 坂野が険しい顔でこちらを見ている。侑志は慌てて首をすぼめる。
「すみません。聞いてます」
「どこが。オレは副主将に新田を指名するって言ってるんだけど?」
「は?」
 侑志が不遜な声を出した瞬間、八名川が腕を振って声を張った。
「はい! 新田君で賛成の人およびこの先のリアクションが面倒くさい人は拍手によって即時承認してください!」
 すかさず全会一致の拍手。必死なのが何人かいる。
「が、がんばりますよろしくおねがいします」
 納得する間も与えられず、定型文を吐きながら侑志は長机に崩れ落ちた。
 ひどすぎる。これは民主制に見せかけた横暴な専制ではないのだろうか。
「悪いね、意見と説明は後で。この部屋すぐ返さないといけないんで巻けるとこ巻いてかないと」
 八名川は非情に言い放ち、指の腹で自分の腕時計に触れた。
「監督、自分たちはとりあえず以上です。あと預けます」
「ん」
 監督が窓を離れ歩いてくる。巻きでと言われたのに、八名川が一番前の席に着いてからも首をかいて黙っていた。
 十秒ほどして、意を決したように顔を上げる。
「離婚することになった」
「なんで一番言わなくていいとこから言うの!」
 皓汰が怒鳴る。侑志は力づくで押さえ込む。治りかけの右手を机に叩きつけるところだったのだ。
 一方の監督は、口火を切ってしまえばすらすら事実を述べる。
「今までほど仕事を休めなくなった。ただでさえ時間も場所も限られているのに申し訳ない。平橋(ひらはし)がもう少し使えれば悩むこともなかったんだが」
「センパイ、何でこっちに飛び火してるんですか」
 ドア際に座っていた平橋がうなだれた。桜原(おうはら)監督は後輩に視線も向けない。
「活動日をなるべく減らさずに済むよう、適任者を見つけておいた。あいつだ」
 監督に指差された男が、黒板の前まで進み出てきて振り返る。
高葉ヶ丘(たかばがおか)野球部OB、新田総志(そうし)です。これからコーチとしてお世話になります」
 よろしく、と笑顔を付け加えた男は紛れもなく侑志の父親である。
 かえりたい、という皓汰の呟きに、侑志は心から同意する。
「僕は桜原監督と同期で、現役時代は彼とバッテリーを組んでいました。監督の不在時にも君たちが問題なく活動できるようお力添えできればと思います。あ、ちなみに現在無職だから時間はあります。ははは」
 父親に、先輩と同輩の前で突然無職宣言された。本当に帰りたい。
 監督はなおマイペースに話を進める。
「それより試合やるぞ。今週の日曜だ」
「親睦試合だよ。『部活動ではなく父兄のレクリエーション』ですので参加は自由です」
 父――新田コーチが際どいことを言いながら、黒板に概要を書いていく。監督の断続的な説明も続く。
「バスを借りて球場まで直で行く」
「いきなりだったから近場は押さえられなくて。一時間ぐらいかな」
「先に学校に集合」
「試合開始は九時だから、七時には揃っててくれると助かるよ」
 情報をまとめてどちらか一人でしゃべってほしい。
 ずっと黙っていた朔夜が、すっと手を挙げ低い声で言った。
「相手は?」
 弛緩していた空気が張り詰める。
 もっと軽い調子なら、そして訊いたのが朔夜でなければ、全員息を止めはしなかっただろう。非公式戦・暗黙のエース、最上級生の桜原朔夜が尋ねたのだ。
 コーチはその重みすら承知という顔で薄く笑った。
「君たちが最も尊敬している選手、であってほしいね」
 チョークを持ったコーチの右手が動く。鍵盤を弾くように音高く文字が綴られる。
「桜原には今回、君たちの監督を外れてもらう。君たち第一〇〇期・一〇一期生の相手をするのは、第八〇期野球部・伝説のエース」
 見慣れた名字が、白く、跳ねる。
「――桜原太陽(たいよう)
 『君たち』と複数形を用いながら、父は朔夜だけを注視して挑発的に笑っていた。
「お前、言ってて恥ずかしくねぇの?」
 監督が怪訝な顔で首をかく。この状況下、その声色で言えるというのは相当に図太いかド天然だ。
 コーチは呆れ顔で返す。
「おまえが自分で言ったんだよ。俺は伝説と呼ばれる男になるって」
「ガキの戯言いつまでも覚えてんじゃねぇよ」
 いきなり明かされた父親の武勇伝に、皓汰の帰りたいアピールが強くなった。
「すんません、監督が監督しないってことはオレらどーすりゃいんすか?」
 三石(みついし)が平気な顔で右手を突き出す。監督がドアを指差す。
 ノックの音がして、見慣れた二人が入ってくる。
「どーも、一日監督に就任しました森貞(もりさだ)です」
 歯を見せて笑う森貞の後ろで、相模(さがみ)は仏頂面だ。
「俺は一日だけ復帰。あのままじゃ終われない」
 侑志の後ろで井沢が動いた気配がした。やはり気にしているのかと盗み見ると、机にだらしなく溶けてへにゃっと笑っていた。意味がわからない。
 怜二(れいじ)が神経質な声で問う。
「つーか、監督たち二人じゃ試合にならないじゃないすか。他のメンバーは?」
「基本的にお前らの先輩だぞ。平橋とか」
 平橋が渋面で頷く。ものすごく不本意そうだ。
 コーチがまた軽やかにチョークを走らせる。
「スタメン決まってるから予告しておくよ。ギリギリの人数だし、もう動かさないと思う」
 二番、センターまで書いたところで岡本(おかもと)が悲鳴を上げる。
「兄ちゃんまで出るの!?」
「よっしゃタカヒロ、フミくんぶっ潰すぞ!」
 森貞臨時監督はひどく乗り気である。
 続いて、三石も坂野も不安そうな声を出す。
「えっ福盛(ふくもり)って『はつはつ』のおっちゃんじゃないの? やべぇ、モツ煮はいいの?」
「な、長北(ながきた)ってまさか長北医院の院長先生?」
「どっちも息子だ」
 監督が補足した。地元民らしいということだけ分かった。
 騒然とする教室で、八名川がゆらりと立ち上がる。どうするのかと思いきや、歩いて行っていきなりメンバー表を右手で殴りつけた。
 静まり返る部屋。上下スライド式の黒板はしばらく残響に揺れていた。
「こっちが覚悟決めて出てくりゃ、まぁ初日からなんもかんも頭越えて勝手に決めてくれちゃって。いい加減にしてもらっていいですかね?」
 八名川の押さえつけた声が空気に沈む。監督は意外そうな顔で腕を組んだだけで、口の端を上げて答えたのはコーチだ。
「これは部活動ではないし、自由参加だと言ったはずだよ」
「富島くぅん。捕手として、この元捕手サンの言うことどう思うね?」
 八名川が一年の側を向く。コーチと同じように笑っていた。侑志の前に座っている富島は、遠慮のない口調で即答する。
「穴だらけの詭弁であることはご本人も重々ご承知なんじゃないですか。それより高葉ヶ丘・伝説のエースはうちの永田(ながた)慶太郎(けいたろう)ですので」
「あっちゃんやめて」
 小学生並みの張り合い方に、永田は赤くなって下を向いた。八名川は黄色のチョークを右手に持つ。
「永田君は自信ないの?」
「何言ってるんですか。僕らの人生分ぐらいブランクあるバッテリーでしょ? 負けるわけないですよ」
 そのくせ臆面もなくこう答えるのだから、永田の照れる基準が分からない。
 だよなぁと笑い、八名川は黒板に『参加者(敬称略)』と書く。
「なぁ朔夜。オレはこの代、伝説の二枚看板だと思ってんの。一人は永田君で、もう一人は」
「私」
「当然」
 森貞、相模、富島、永田、朔夜。ひとつずつ増えていく名前。かけられる言葉。
「コーちゃんも新田ちゃんもどうよ。お父さんに好き放題言われて。今、腹ン中グツグツしてんじゃない?」
「してます」
「とてもしてます」
「おかもだって、お兄ちゃん出るのに俺は行きませんとはいきませんよねぇ。ミッちゃんも坂野ちゃんも地元の意地ってのあるでしょお? 井沢君も、ノブさんが落とし前つけるっつってんのにオレ家にいますとは言いづらかろうよな。レイジだってここまで来て蚊帳の外なんてまっぴら……あっれぇ」
 八名川は最後に自分の名前を書き殴り、全員分を丸で囲った。
「びっくりー。僕ら『自主的に』全員参加みたいですぅ。三年生は引退しましたし『これは部活動の一環ではありません』が、我々現役高葉(たかば)生一同、心を込めて新田コーチを『歓迎』させていただきまぁす」
 チョークを持ったまま両手を組んで、手の甲に右の頬を押し付ける。声色といい仕種といい、美形でも許されるかどうかというラインだ。
 まさに一触即発。侑志は息をするのも憚った。
 コーチは目を丸くしていたが、気分を害した様子ではなかった。すぐにやわらかい笑顔で右手を差し出す。
「君みたいな子がいてくれて嬉しいよ。八名川キャプテン」
「お世話になります。新田コーチ」
 八名川も真面目なトーンで言い、チョークの粉をわざわざ拭いてから握手に応じた。
 殴り合いにならなくてよかった。侑志は肺の中身をやっと吐き出す。八名川が呆れたように頭をかく。
「コーチもオレも、パフォーマンスとしてやってただけだから真に受けないでよね。新田ちゃん以外はわかってると思うけど」
 監督の目が若干泳いだのを侑志は見逃さなかった。真に受けていたのは少なくとも自分だけではなかった、はずだ。
 八名川はまた指で腕時計を軽く叩いた。
「時間。みんな忘れ物しないように出てください。椅子とか動かしたの全部元に戻してね。監督たちもトレ室移動してください」
「トレ室?」
 コーチが首を傾げる。監督がその左腕を取って歩き出す。
「トレーニング室。今はそういうのあんだよ」
「豪勢だねぇ」
 あのオッサンたちはどうして公然といちゃついているのだろうか。
 八名川は左腕で口を覆って黒板の文字を消し始めた。粉を吸わないようにしているらしい。おかげで台詞がこもって聞こえる。
「坂野ちゃん、みんなのこと先導しといて。向こうの部屋も後が詰まってるからきびきび移動してね。だらだら歩き禁止」
「八名川は?」
「ここの鍵返してから行く。新田ちゃん消すの手伝って、上の方オレ届かねんだわ」
 侑志に向けた八名川の目は冷たくて、本題が他にあるとすぐに覚った。
 空調の効いた部屋に二人。皆の残した熱気が攪拌され薄らいでいく。
 父の文字は勢いの割に強くはなかったから、黒板から粉をこすり落とすのに苦労はしなかった。
「お父さんの話もしたいけど、重要な方からにしようか」
 八名川は長い指で眼鏡を外し、ワイシャツの胸ポケットに収めた。この暑いのにわざわざネクタイを締めてきたのは、彼なりのけじめだったのだろうか。
「今日るっちがいない理由。まさか見当もつかないとか言わないよね」
 侑志は頷くよりもうなだれた。
 琉千花(るちか)本人が吹聴したとは思わないが、怜二たちには状況ですぐ伝わったはずだ。八名川の耳に入るのも時間の問題だった。
「時間ないのはマジだから歩きながら話そう。いいね」
 有無を言わせぬ口調に従う。元々、あの件で侑志に弁明できることなどない。
 廊下を進み出す八名川の横顔はとても静かだった。
「風邪だって怜二が説明してたのは本当。どうも風呂でずーっと冷たいシャワー浴び続けてたらしくて、いくら夏だからって体調崩すわな。そこまでせんでも仮病でよかっただろうに」
 侑志は自分の左腕に強く爪を立てた。
 傷つけてしまった。自分のことを好きだと言ってくれた女の子に、ひどいことを言って追い詰めてしまった。
 それなのに。
「謝らなきゃとは、思ってるんです。でもなんて言ったらいいかわからなくて。俺が、俺の立場から何が言えるのか、言わなきゃいけないのか、言っちゃいけないのか、いくら考えても全然わからないんです」
「そうさね。オレにもわからねぇわ」
 わざわざ侑志を残らせた割に八名川は煮え切らない。
 金属の輪に人差し指を通して、講義室の鍵をずっと回している。無表情で。
「オレはこのままあの子が野球部辞めるならそれでもいいかなと思ってる。理由がなくなったなら、嫌いな野球にしがみついてても苦しいだけでしょ?」
「でも、それじゃ」
「でも、なによ。朔夜がプレーヤー続けるならマネジは他にいてくれないと困るって? さすがにそれは外道が過ぎるんじゃないの」
「そういう、わけじゃ」
 琉千花を便利な存在と認識したことはない。よくも悪くも。八名川の邪推より下衆な本音を自覚して、侑志は言葉を失くした。
 階段をのぼる。踊り場で立ち止まり八名川を見上げる。
「八名川さんは、いつもどうやって告白断ってるんですか?」
「オレ? オレは断らないよ。幻滅してくれるまで待つの」
 八名川の笑みには感情が乗っていなかった。整った容貌は自然光に淡く縁どられ、他人への蔑みを露わにしてなお醜悪な空気をまとわない。
「告白なんて辻斬りみたいなもんでしょう。不意打ちで凶器振り回して、ちゃんと血が出るか試してる。やった方は気が済むかもしれないけど、やられた方はたまったもんじゃないね」
 同性の侑志から見ても、八名川為一は美しい人だった。顔立ちも、体格も、四肢も、所作も――心配りも、傷つけ方でさえ。
 それだから侑志は彼を見るたび違和感を抱いた。
 八名川は恋人を作っては別れていると聞いていた。妙な癖のせいですぐに愛想を尽かされると。だが一度は八名川に好意を抱いた女性たちだ、どんな奇行だろうと、たかだか一ヶ月も耐え切れずに心変わりするものだろうか。
 きっと自然消滅などではないのだ。
「八名川さんは、いつも通り魔に復讐してるんですか?」
 侑志の問いに、八名川の瞳が揺れた。激しく強い色。肯定したも同然の炎を見つめて侑志は続けた。
「自分に気のある女の子が、みんな嫌いなんですね」
 言い終えた瞬間、何かが飛んできた。講義室の鍵だった。
「新田ちゃんさぁ」
 八名川はまた笑っている。恐ろしく冷えた声をしていた。
「あんま不用意に核心突きすぎんなよ。いつもコーちゃんが身を挺してかばってくれるわけじゃないんだぜ」
 井沢を激昂させた件もお見通しか。すみません、と呟いて階段を上がりきった。
 八名川は黙っていた。左手で侑志の右手の甲を軽く叩いて、握り締めた指を開かせる。するりと鍵が抜き取られていく。その指先があまりに繊細で、高まっていた緊張がゆっくりと凪いだ。
「琉千花のことは、受け入れなくても、謝らなくてもいいよ」
 八名川は目を伏せて講義室の鍵をもてあそんでいる。
 他人に告白され飽いた先輩は、細い声で友人の妹を気遣った。
「ただ、力任せの言葉は言い直してやって。あの子が痛がってるのは内容よりも、ぶつかった勢いだと思うから」
「わかりました。帰ったら必ずメールします」
 侑志も顔を背けて答えた。
 望まない好意に、この人は何度向き合ってきたのだろう。侑志は一度目でさえ持て余しているのに。空いた手をまた強く握った。
 八名川が侑志の顔を覗き込んでくる。いつもの柔和な微笑みだ。
「実はオレ、副主将には富島君を推してたんだよね。もしくは年季でコーちゃん。だけど坂野ちゃんは、最初から最後までキミ一択だった」
「どういうことですか?」
「そういうことだよ」
 それ以上は教えてもらえなかった。職員室の前で追い返されて、鍵の保管場所も知らないままだ。
 夏は終わった。残り火だけが忘れがたく、片隅でくすぶっている。