11話 The Eleven - 8/9

イスカリオテのユダ

 七月二十七日。
 白球を見失いそうな曇天の下、高葉ヶ丘対馬淵学院の試合は行われた。陽射も風もなく、気の滅入るような蒸し暑さだ。
 新田総志はハンドタオルで額を拭う。自分が高葉ヶ丘高校野球部を応援するために球場にいるなんて、この期に及んでも実感がない。
 先攻の高葉ヶ丘は一回、三者凡退で早々に攻撃を終えていた。
「降りそうっすね。新田さん雨具持ってます?」
「大丈夫だよ。お気遣いありがとう」
 総志が笑いかけると、岡本史宏(ふみひろ)と名乗った青年は照れくさそうに鼻をかいた。今マウンドに立っている岡本選手の兄君だそうだ。
 どうせなら息子が登板する試合を観たかったが、決心するのが遅かった。このレベルの相手になると、打者ならともかく投手としての侑志は歯が立たない。桜原も分かっているからライトに置いたのだろう。
 先発の岡本選手もお粗末だった。アウトを取れず走者がかさんでいく。自分の母校ならばこんなものかと思う。
「しかし、セカンドの相模君だっけ。動きがかたいね。さっきのフィルダースチョイスもそうだけど、今のだってちゃんと見ていてあげればショートの子も捕れただろうに」
 おじさんの知ったかぶりに気分を害した様子もなく、岡本兄は総志の話に付き合ってくれた。
「相模はいつも職人肌っていうか、地味でも丁寧な仕事するやつなんすよ。春からショートやってた桜原ってのもスタイルが似てて、相性よかったんです。何で替わっちまったんだろ。あの11番の方がなんか浮いてるって感じしません?」
「わからないけど、桜原君は右手を怪我したと聞いたよ」
「この時期にもったいねー!」
 総志は背番号11の小柄な少年を見つめた。
 井沢選手といったか。周囲を巻き込んで調子を崩させる選手は、チームスポーツにおいて致命的な欠点になりうる。頭数が足りなければ四の五の言ってもいられないのか。
「堂弘、ここで切れ、ここで切れ! 上位にかえすなっ」
 両手を組んで唱える兄の願いが通じたのか、岡本選手は何とか三アウトをもぎ取った。
 打者一巡。一回にして五失点。
 総志はこと野球に関して、諦めなければ勝機はあるという言葉を信じてはいない。負ける試合は負けるべくして負けるのだ。奇跡は相応しい者の前にしか現れない。
 総志は高葉ヶ丘の四番打者が出てくるのと同時に席を立ち、外野席まで歩いていった。
 写真を撮っていた女が振り返る。
「来てくれたのね。新田くん」
「息子の写真を撮るのはやめてもらえませんか。柏木さん」
 曖昧な表情で黙っているということは、本当に侑志の写真だったようだ。
 軟式といえど名門の試合、しかも夏休み中とあって、外野席にも多くの人が入っていた。治療のため試合を一時中断、というアナウンスが息子のものでないことを確認して、総志はグラウンドから離れる。柏木もついてきた。
「試合は子供たちのものなんです。待ち合わせに使うのは非常識ですよ」
「わたし、スポーツって嫌いなのよ。昔も今も。それを神聖だと信じている神経が理解できないの」
 レンズが総志を向く。拒絶の意を示すために視線を外す。
 カメラに興味のない総志には、真価の見当もつかないぐらい立派な一眼だ。詐欺の片棒をかつぐ悪魔の機械。柏木夢子(ゆめこ)に欠けた人間性を補完して、情緒あふれる写真をつくりあげる。
「わたしのいる場所に現れたってことは、答えは出たんでしょう?」
 カメラを下ろし、柏木は一歩近づいてくる。黒々とした瞳が画像を記録するように瞬く。
 総志は世界で一番美しい女性は美映子だと確信しているが、変わっていないという点では柏木の方が上だった。高校生の時分から既に女だったのだ。少女ではなく。
 柏木の口唇が総志の口唇を塞ぐ。瞬時に指先まで凍って身動きが取れなくなる。
 放送が鼓膜を打って、総志が生命体であることを思い出させる。
 ――選手の交代をお知らせします。
 キャッチャー・森貞くんにかわりまして、富島くん――
「やめてください」
 どうにか突き放して後ずさった。何もしていないのに眩暈がする。
 紅を覚えた粘膜は、いっそう生々しく肉を香らせている。
「何度もしたじゃない。つれないのね」
「全部そちらがしてきただけでしょう。今の君には桜原だっているのに」
 総志は右手で口許を強くこすった。左手では絶対に触れたくない。もし結婚指輪にかすりでもしたら耐えられない。
「桜原くん? ああ、桜原くんね。彼とは別に」
 女は自分の夫を名字で呼んだ。髪をかき上げる左手に指輪はない。
「子供が欲しいって言うから産んであげただけ。一人目は女の子だったの。やっぱり息子が欲しいって食い下がられてもう一人ね。若かったからすぐだった。新田くんのときはダメだったのに」
「僕は……違う」
「違うの?」
 弱々しい否定は完全に悪手だった。柏木は口の両端をつり上げ総志の顔を覗き込む。
「息子が欲しかっただけの桜原くんより、美映ちゃんが欲しかっただけでわたしを抱いた新田くんの方が、人として上等なのね?」
 わっと歓声が響いた。この声量は高葉ヶ丘ではないなと考えずとも分かった。
 総志の喉は乾いていくばかりで声も出せない。
「考えておいて、ね、新田くん。美映ちゃんを捨てるか、侑志くんを売るか」
 指先で総志の胸を撫でて、女は球場から出ていった。
 姿が見えなくなっても、心臓に粘液が絡みついたような感覚がずっと抜けなかった。

 

 何と言われたのか分からない。誰かが怒鳴っていると認識した瞬間に徹平の足は止まり、なお悪いことに相模も硬直した。二人の間をボールが抜ける。
「三つ!」
 ああ富島か、と思い至ったときには既に新田の手から坂野の手に球が渡っていた。二塁と一塁に馬淵学院の走者がいる。
 徹平は掲示板に目をやった。

一 三石 8
二 相模 4
三 坂野 5
四 富島 12
五 岡本 9
六 八名川 3
七 新田 10
八 井沢 11
九 早瀬(はやせ) 7

 大掛かりな間違い探しみたいだ。
 四番が富島でショートが徹平。森貞は危険球を食らって冗談かと思うぐらいの鼻血を出した。桜原は今も右手を曲げられない。
 きっと悪い夢だろうから早く覚めたい。
 一死一・二塁、七点ビハインド。まずいなぁと考えているのに心がついてこない。新田はまた『お前おかしいぞ』という顔をしてこちらを見ている。
 相模と謝り合って、定石の守備位置に戻った。
 オレはおかしいんだろうか。違うな。どうだろう。どの時点なら正常だったのかな。オレには『野球』っていつもこんな感じだったような気もする。
 打音。捕球。六・六・三のダブルプレー、チェンジ。
 感慨もない。本来桜原が受けるはずだった称賛だ。
「井沢お前ふざけてんのか」
 ベンチに戻るなり胸倉をつかまれた。朔夜だ。右手で徹平の襟元を絞り上げている。
「昨日から何なんだ、やる気ねぇならお前が退場するか?」
 朔夜の激しい目を見ていると徹平は恐ろしいより悲しくなる。不満をぶつける役まで肩代わりしてしまう彼女の責任感が痛くて泣きたくなる。
「朔夜、やめろ。悪かったのは俺だ」
 割って入った相模はすごい汗で、口唇が青褪めていた。朔夜の顔も徹平の顔も見ようとしない。
「俺がリズム狂わせてるだけだ。お前まで空気悪くするな」
「ノブさん。いいから座って」
 相模は朔夜に手を添えられ、糸が切れたように腰を下ろす。徹平は審判に急かされてバッティングの支度をする。
「朔夜さん。オレ、ふざけてません」
 いまさらな返事に、朔夜はかすれた声で言った。
「知ってるよ」
 高葉ヶ丘は今回も三人で攻撃が終わった。
 またシートの変更。
 三石がセンターからセカンドへ。
 岡本がマウンドからセンターへ。
 マウンドには永田が登った。
 セカンドの相模が下がり、土の上に三年生がいなくなった。
「正直、まだ肩全然なんで。彩人と皆さんが頼りなんで、よろしくお願いします」
 永田が殊勝に頭を下げる。高葉ヶ丘のピンチを幾度も救ってきた切り札だ、監督がこの場面で頼りたくなるのも理解はできる。
 だが永田が今までどおり連続で打ち取ったのは下位の二人までで、上位に戻ってから立て続けにヒットが出た。永田が本調子でないせいではないのだ。馬淵学院に通用する投手ではない、事実はとても単純。
 富島がクロスプレーで強引にアウトを奪い取るまで、永田は二点を失って走者を三人背負っていた。
「吐きそう」
 ベンチで呟いた永田の打順は、折り悪く次。相模に替わって入った位置だ。
「ほんと、馬淵学院って嫌いだよ」
 利き腕にプロテクターをつけながら、力ない声で永田は言う。徹平もバットを手に小さくこぼした。
「オレもだよ」
 四回表の攻撃。これからだぞ、とは誰も言わなかった。
 森貞は戻ってきていたが、痛々しい姿で気を吐いても虚しいだけだと知っていたのだろうか。いつもなら、切り替えろと言うはずの相模も、タオルを被ってぐったりしていた。朔夜はクリップボードを鉛筆の先で忙しなく叩いていた。監督は元々こういう場面で一喝するような指導者でもない。
 まだ諦めていないことを態度で示す選手はいたが、言葉はどこからも出ない。
 坂野と富島が粘ったものの、岡本の打順で併殺が出て無得点に終わった。
 〇対九。
 五番から始まった四回の裏。永田は最初からつかまって、あの球速にもかかわらずホームランまで出た。スリーランだった。
 〇対十二。このままだと五回コールドの条件を満たす。
 富島の配球が必死の灯を繋ぎ、まだ士気の生きている選手のところへ打球が飛ぶ。坂野。新田。最後のアウトはピッチャーライナーだった。普段の永田は危険を避けるため後ろに任せるのに、わざわざ自分で捕球した。
 それが全てだ。
 今徹平に対してチームの皆が感じていることの全て。
 耐えかねたように森貞が叫んだ。
 九回まで見せてくれ。お前たちの本当の野球を見せてくれ。
 見せたいですと新田が大声を出した。肝心なところで空気が読めないから先輩より先に反応している。また泣きそうになっていて、本当に涙腺が緩いやつ。
 空っぽの円陣を組んだ。いるのにいないような円陣で、思ってもいないことを一緒になって口にした。
 五回表。八名川がファーストゴロ。新田がライトフライ。
 最後になるかもしれない打席を託されたのは徹平だった。
 打てるなら打ってやりたかった。こうなったのはオレのせいじゃないと言い訳したかった。
 せめて、
 ――明らかなボール球でバットが動いた。スイングを取られた。一度外して足場をならす。
 見間違いではない。内野のフェンスにはりついて、息を乱してこちらを見守っているのは、茗香だ。慣れないコールに、口唇をどうにか合わせようとして。
 笑ってしまった。力が入らなくなった。
 どうしようもない三振で、試合は終わった。
 一度しかないこの夏が井沢徹平の手で終わって、整列まで待てなかった雨が土を濡らした。

 雨は突然に激しくなった。試合に出た者のユニフォームも、出られなかった者のユニフォームも平等に濡れた。
 侑志は強く覚えている。
 水音。草の匂い。コンクリートの通路の染み。肺を満たす重い湿気。肌に張り付いたインナーの感触。
 三年生は俯いたまま言葉を発さず、後輩たちも何も言えず、最初に口を開いたのは朔夜だった。
「私はこの中で一人だけ、同期みたいに長く森貞さんや相模さんとやらせてもらいました」
 野球部でだけは四年生の人。セーラー服に包まれた身体をまっすぐに伸ばして、後ろで両手を重ねていた。かしこまった呼び方で二人を見ていた。
「部のかたちを保てなくなりそうだったときも、二人が踏ん張ってくれたからここまで来られたってことを、監督たちと私は全部知ってます。なので、ごめんとか言ったらマジで遠慮なくブン殴ります」
 森貞が笑った。鼻に当てられた分厚いガーゼが揺れた。今までの芝居がかった大笑ではなく、ついこぼれてしまったような笑みだった。相模はそれでも顔を上げない。
 朔夜が声を張る。一言ごとに外の雨粒が弾ける。弾ける。
「学校戻る前にこれだけは言わせてください。私たち全員、たくさんお世話になりました。最後まで残ってくれてありがとうございました。ここまで付き合ってくれてありがとうございました!」
「ありがとうございました!!」
 最初に泣き崩れたのは意外にも八名川で――相模が泣き笑いで次期主将に肩を貸して――朔夜はどうだったろう?
 夏が終わった。一度しかないこの夏が。