11話 The Eleven - 7/9

クラスメイトみたいだな

 蛇口から出てくる水がぬるい。とはいえずっと流水にさらしているせいで、侑志の両手は冷えてきていた。
 昼食の前に手を洗ってくると廊下に出たはいいものの、戻る決心も食欲もない。
「新田。にーった」
 呼ばれてはっと振り返る。誰もいないと思ったら、こっち、と下から桜原の声がした。
 侑志は水を止めて嘆息する。
「おまえ、そんなとこしゃがんで何してんの」
「囲み取材を受ける前に新田と密会に来たの」
 真剣な顔だが、ふざけたことを言える元気はあるらしい。
 みな二年E組――怜二のクラスで昼食をとっているので、一番離れたA組に場所を移した。誰もいないとはいえ、上級生の教室に勝手に入るのは緊張する。
「遅かったけど、ひどいのか」
「病院がすごく混んでただけ。捻挫I度だから日常生活なら長くて一週間だって」
 天気の話みたいに言って、桜原は迷わず机に座った。侑志はすぐそばに立つ。
 日常生活なら、ということはスポーツはもっと先だろう。次の試合は明日だし、正直勝てる目算も気概もない。秋の新人戦には間に合いそうだといっても、それが彼にとって希望かどうか。
 侑志は深く息を吸って、両手を軽く握った。
「桜原の言ったとおりにしといたから。井沢の青い顔見りゃ『自分で転んだ』なんて誰も信じないだろうけど、みんな何も言わないでくれてる」
「そっか。ありがたいね」
 桜原は左手で鼻をかいた。こうなってみると、普段彼が同じ仕種をどちらの手でやっていたか思い出せなかった。
「平橋先生にも悪いことしたな。付き添ってくれてる間ずっと申し訳なさそうでさ。今度うちにあらためて謝りに来るって。親父も一応責任者だからいいって言ったんだけど、その前に俺の保護者だからって。案外真面目なんだなーって笑いそうだった。結構危なかった」
「桜原は悪くないよ。先生も」
 だったら誰が悪いのだという話にはしたくなかった。侑志は右手で鼻をかく。
「ショート、井沢が入ることになった。監督と三年生と四人でずっと打ち合わせしてて、多分まだしてる。とにかくノブさんはセカンドのままで行くって」
「あーうん」
 言葉を濁したということは桜原も知っているのだろう。
 相模は規律や手順を重んじる分、アクシデントに弱い。そしてミスに対する自責の念が過剰なほど強い。監督もこの想定外の事態に、守備位置の変更まで重ねたくなかったはずだ。
「ごめん。俺が井沢をキレさしたから。もっとちゃんと話せりゃよかった」
「殺されかかってた人が何言ってんの。あのままだとよくて二人とも出停でしょ。俺の負傷欠場が一番穏便だって」
 桜原の視線は静かで、本気で言っているのが伝わってくる。けれどテーピングされた手首を見ていたら、算数として正しい答えを肯定するなんてとてもできない。
 落ちかけた沈黙を引き戸の音が破る。朔夜だった。
「お前ら、ひとの席で何やってんの」
「他の先輩の机座るよかいいでしょ」
 減らず口を叩く桜原弟。
 朔夜はこちらに歩いてきて、見覚えのある包みを軽く揺らす。
「新田戻ってこないから、弁当持ってきてやったぞ」
「えー新田ばっかずるい、俺のは?」
「皓汰は先輩たちに顔見せて安心させるのが先」
「そうだけど」
 ぶつくさ言いつつ根が素直な弟は、姉と反対のドアから教室を出ていった。
 朔夜は席につき、近くの椅子を指差す。
「そこ、友達の席だから平気」
「ありがとうございます」
 自分の弁当も持ってきているということは、二人で食べるのは決定らしい。坂野に見つかったら半殺しにされそうな気がする。しかし侑志は目の前の先輩の機嫌を損ねる方が恐い。
 言われた椅子を引っ張ってきて、同じ机で包みを広げた。
「新田、今日もお母さんのお弁当?」
「忙しいくせに飯は自分で作りたがるんです。休みの日に大量作って小分けに冷凍したりして。昨日も何かやってたみたいです」
「すごいね」
 朔夜は感嘆した様子で弁当のふたを開ける。立派な手作りだ。
 侑志は机の木目を睨みつける。
「朔夜さんこそ。学校あって、部活やって、家事もやって、弁当自分で作って。毎日全部って、しんどくないんですか」
「だってほら、八名川には怒られそうだけど、私は授業で気ィ抜いてるし。他のことは全部趣味でやってるから、責任はないもん」
 朔夜は目を伏せて、落ちてきた髪を耳にかけた。
「すごいことだよ。大人としてちゃんと社会で働いて、家でもちゃんと親をするっていうのはさ」
 無性に手を伸ばしたくなって、その衝動を箸を握って封じた。年上だな、遠いんだなと引き留めたくなったなんて、理由が幼稚すぎて泣きたい。
 息を吐いて妙な感傷を追い出すと、侑志も弁当を開けた。からあげにアスパラのカレー炒めにゆかりの卵焼き……好きな部類のものが集まっているような。
 朔夜が急に笑い出す。侑志はとっさにふたを閉める。
「なんすか、人の弁当見て」
「違う違う、父さんの話思い出して。うちも昨日からあげだったんだけど」
 桜原家の台所で朔夜がからあげを揚げていると、弟がふらふらやってきて一個食べてしまったそうだ。監督も(朔夜曰く「めずらしく」)つまみ食いをして、『昔これをやって新田の母親にものすごく怒られた』と呟いた。
「お弁当のからあげ一個取っちゃったんだって。そしたら真っ赤な顔で怒られて、そうなると新田のお父さんは絶対味方してくれないから、いつも二対一で説教だったってぼやいてた。それでも三年間一緒にいたんだから、侑志のご両親のこと相当好きだったんだなぁと思ってさ」
「そうですか」
 朔夜が嬉しそうだったから、侑志も訂正せずに微笑んだ。
 きっと二人とも説教なんてしていない。監督が思い違えているのならそのままでいい。
「父さんの思い出のからあげ、私も食べたい。トレードしようぜ」
 朔夜はにっと歯を見せて箸を動かした。侑志は頷いてゆっくりふたを外す。
「どうぞ。大したものじゃないですけど」
「やった。こっから好きなの取っていーよ」
 風で薄い色のカーテンが舞い広がる。遮られていた陽射しが弾ける。
 昼休み。汗のにじむシャツ。机を分け合って、互いの弁当をつついて。朔夜の黒髪がまた耳から落ちて。
「なんか、私たちもクラスメイトみたいだな」
 その表情があまりに透き通っていて、笑み返すのが苦しかった。
 三人のうちの誰がこんな気持ちだったのだろう。過去の、現在の話にも一切登場しない朔夜の母親はどんな気持ちでいるのだろう。
 精一杯の勇気できんぴらごぼうを一つまみ、口に入れて素早く咀嚼する。
「ていうか朔夜さん、俺の聞き間違いじゃなければ、なんですけど」
「うん、なに。からあげめっちゃおいしいよ」
「じゃなくて。いやきんぴらも超うまいっすけど。さっき、俺のこと何て呼びました?」
「なんて?」
 朔夜はおうむ返しに言いながら飯をかき込んだ。天井を見つめて口をもぐもぐ動かしている。ごくんと喉が動いてから、ようやく侑志の顔を見てくれた。
「もしかして『侑志』って呼んだ?」
「よびました」
 自分で切り出しておいて何だろうこの恥ずかしさは。侑志は箸を持ったまま顔を背けた。
 えー、と朔夜は箸先で弁当箱の底を叩いている。
「父さんがお前のお父さんのこともお前のことも『新田』って呼ぶから、皓汰が『ややこしいから息子は「侑志」にしてよ』ってキレてさー。一昨日からうちではお前は『侑志』に決定して……さっき出ちゃった?」
「でました」
 侑志はいよいよ頭を抱えた。
 二日で定着するって、どんだけ俺たちの話してんだあの家。
 説明が終わってしまえば朔夜はけろっとした顔だ。
「嫌ならやめるよ」
「いえ、全然嫌じゃないです。嫌ではないんで、好きにしてください」
 早口に言って弁当を猛烈な勢いで食べ始める。母には悪いが味なんて全然分からない。
 朔夜が、腹減ってんならこれもやるよ、と自分の使っている箸でいんげんの肉巻きをひとつくれた。
「父さん、いつもはそんなに自分の話しないんだよ。でも新田のお母さんに会ってから、ぽつぽつ、ぽつぽつ、昨日の夕食なんてずっと父さんがしゃべってたな。新田のお父さんのこと。ずっと話したかったんだろうなって思った」
 箸を置いた朔夜の左手が机の縁をなぞる。侑志の視線が吸い寄せられていく。
「前にさ、父さんもう自分で野球しないのって訊いたことあったんだ。そしたら、『俺はもう人生で最高の相棒に会ったから』って、照れもしないで言ってた。『あいつが捕ってくれたから、俺はもう他の奴に投げなくていい』って。新田のお父さんだったんだね。私ずっと、知らなくて」
 この指先を、侑志はきっと大人になっても思い出すのだ。
 朔夜の声を。顔を。髪を。二人きりの教室の広さを。温度を。色を。永遠のように。
 枯れない緑のように、いつまでも鮮やかに。
 ――あなたのお父さんが、俺の両親がそうであるように。
 侑志は自分の右手を滑らせて、朔夜の指にぶつかる直前で止めた。
「ありがとう、ございます」
「え、今私がお礼言う流れじゃん」
「すみません」
 朔夜さん。朔夜さん、すみません。どうしたらいいのか分からないです。
 俺はこんなに幸せで、それも親のおかげなのに、井沢は違うんです。あいつは何も悪くないのに、あんなに苦しそうで、俺だけ幸せでいるのは卑怯に思えるんです。俺だって、いいことをしたからこの場所にいるわけじゃないのに。
 朔夜は進めなかった侑志の手に自分の手を重ねてくれた。少し汗ばんだ手のひら。
 何を言っても嘘になりそうで、本当も全てを壊しそうで、ただ何でもないふりをした。
「戻りませんか、朔夜さん。みんな捜してるかもしれませんし」
「そうだな」
 朔夜も何も訊かずに手を離した。
 案の定、入口に坂野が立っている。
「朔夜さん。皓汰君ご飯食べづらそうなんだけど、どうしよう?」
「あーあいつ利き手……わかった、今行く。ありがと」
 弁当をまとめて朔夜は出ていく。
 侑志はここに残って一人で食べていくことにした。だが坂野が入ってきて、不機嫌な顔で朔夜の席に腰を下ろす。朔夜がくれたおかずを素手で奪う。
「坂野さん、いつからいたんすか」
「からあげのくだり」
 つまりほぼ全部か。困るような話でもないので流した。
「桜原、飯大丈夫なんすか」
「井沢が介助しようとして断られてた。八名川とかはその辺の立ち回り上手いし、同じクラスの琉千花ちゃんもいるから心配ないだろ。朔夜さんも行ったんだし」
 坂野の左手が下の方をさまよう。侑志がティッシュを一枚渡すと、ばつが悪そうに指を拭いていた。
「皓汰君に恩を売らなくていいのかって顔してるぞ。わかってるよ、オレは嫌われてるし、怪我のときは構われる方がストレスだと思ったから離れてた!」
「むしろ、自覚あるみたいだったんで意外でした」
「新田さぁ、他の二年への半分でいいからオレにも敬意持てよ……」
 坂野は頬杖でため息をついた。それきり黙っているが立ち去らない。半分でいいなんて謙虚なとこあんだな、と思いながら残りの昼食をかき込んだ。
 侑志は下を向いて弁当箱を片付ける。
「坂野さん。俺、坂野さんのことも尊敬してますよ。半分じゃなくて」
「朔夜さんへの愛の深さとか?」
 坂野は自棄みたいな口調で笑う。そうです、と侑志は頷く。嘲弄ではなく真剣に。
 好きな人にまっすぐ好きだと示せる、はっきりと好きだと言える。とても難しいことだった。なってみるまで知らなかった。言えなかった人と向き合うまで解らなかった。
「いまさらって思うかもしれませんけど。本人にきちんと言えるのって、勇気あんなって。すごいなって思います」
「なんなの、新田はバカなの?」
 机の上に板ガムが一枚投げ落とされる。
 緑のキシリトール。坂野は依然しかめ面。
「言うに決まってるじゃないか。本当の気持ち言わないやつに、誰が本当の気持ちで応えてくれると思うわけ?」
「あの、これは?」
「真面目にバカ。補填。さっき一個おかず取ったから」
「……ありがとうございます」
 もしかして、坂野輝旭という先輩を大いに誤解していたのかもしれない。侑志は苦笑してガムを拾い上げ、その後の坂野の台詞を聞いて真顔になった。
「で、新田。おまえやっぱり朔夜さんのこと好きだろ」
「坂野さんのそういうこと前触れなく訊いてくるとこはどうかと思います」
 気持ちを整理するのに時間が必要な人間もいるのだ。
 朔夜が昼休憩の終わりを告げに戻ってくる前に、侑志と坂野は教室を出た。
 明日は試合だ。
 誰も口にはしないけれど、恐らくはこの夏最後の。