8話 Left-field - 2/6

何がほしいの

 試験の終わった翌々日、桜原(おうはら)監督は待ってましたとばかりに試合を組んできた。
 まさかの変則ダブルヘッダー。先発投手はまさかの、背番号10新田侑志(ゆうし)。しかも相棒が12を背負う富島彩人(あやと)。無理だ無茶だと駄々をこねた甲斐もなくマウンドに送り込まれた侑志は、これまたまさかの六回無失点。どうせストレートしかないんだから開き直れと、監督に言われたのが効いているのだろうか。
 それにしても、初回第一球ど真ん中――とんでもない球だった。
 試合開始を告げる号砲のような、重く、低く、それでいて烈しい音。固まったまま動けなかった。相手打者も、当人である侑志さえも。
 自分の才能だと考えるほど驕ってはいない。いい音を響かせたのは富島の技術だ。
 富島は試合前も頼もしかった。自信がないとぼやく侑志に、白球を手渡すときの手つきと表情。
投手(おまえ)の仕事は投げることだよ。あとは捕手(ぼく)の責任だ、お前が気にすることじゃない。ただ信じて投げてくれれば、それでいい」
 侑志はこのとき、マウンドに向かう前に必ず富島と調整する永田(ながた)の気分が少し解った。森貞(もりさだ)と組むのも問題ないし、この分なら高校でも何とか投手をやっていけるかもしれない。
 六回裏、高葉ヶ丘(たかばがおか)の攻撃。無死一・二塁のチャンスを逃すも、既に高葉ヶ丘は四点を挙げている。
 二塁ベースからベンチへ戻る侑志の足取りは軽い。
「あれ、富島下がんの?」
 富島がキャッチャーメットではなくキャップを被っている。ということは侑志の出番も終わって、朔夜と森貞が試合をコントロールしていくのだろう。
 水を飲んで一息つこうとした侑志に、富島が何かを差し出してきた。
「お前はまだ頑張れよ」
 侑志のグラブではなかった。そもそも投手のグラブではない。より大きく重く深い、これは――。
「マウンド私。お前レフト。よろしく」
 朔夜が侑志の手から打撃用メットを奪い取り、弟が侑志の頭に帽子を載せる。侑志は慣れない手ごたえに呆然とする。
 外野用のグラブ。
「新田君」
 永田が侑志の袖を引いてきた。引きつった顔で、左手にやはり見慣れないグラブがある。
「どこお前」
「ファーストだって」
「ミットは」
「初心者は深くて使いにくいだろうからこっちにしろって、八名川さんが」
 状況を理解できない侑志に、その八名川が笑顔を向けてくる。
「はいフィールディンググローブ。使うっしょ?」
 高葉ヶ丘高校にシートの変更。
 ピッチャー 新田→桜原(朔)
 キャッチャー 富島→森貞
 ファースト 八名川→永田
 レフト 早瀬(はやせ)→新田
 つまり八名川と早瀬は、ベンチに退くことになるわけで。
 侑志はベンチの奥を見た。早瀬兄がどっかり座っている。侑志と目が合うと思いきりよそを向いた。
 うわ、早瀬さん、絶対怒ってる。
 何で事前の一言もなく、と監督に目で抗議したが、早く行けという動作をされただけだった。永田と心細い視線を交わし合い、しぶしぶ守備位置に就く。
 初めて立つ左翼は想像以上に広かった。後ろにきちんと壁のある分、外野を越す=諦めろ(ホームラン)の草野球とはプレッシャーが違う。
 先のイニングまで守っていたマウンドには朔夜。背中の13のがひどく小さい。こんなに遠くて大丈夫なのか?
「新田!」
 センターから三石が声をかけてきた。使い込んだグラブを大きく振りながら笑っている。
「オレがカバーすっから、だいじょぶ」
 侑志は頷いて、借り物のグラブの感触を確かめる。立った以上は無事に務め終えなければ。
 試合再開後、朔夜はいきなり走者を許した。というより、朔夜からの送球を永田がこぼしたのだ。その間に打者走者は二塁に到達。
 普段の永田ならフィールディングに問題はない。『一塁手』でなければ処理できたはずだ。
 気を付けなければ、次は我が身かもしれない。
 侑志が気を引き締め直した直後、また永田がバント処理に手間取って無死一・三塁のピンチを招いてしまった。侑志は次の手を必死に予想する。
 スクイズあるか? 犠打の後だからしないか? でも永田の守備見てれば一塁線狙ってくるかも。
「新田!」
 打球音と誰かの声で我に返る。正面にフライ。侑志は落下点に走り込み片手を添えてしっかり捕球した。
 よかった、エラーしなかった。
 息をついたのも束の間。
「バックホーム!」
 森貞の怒鳴り声。走者が本塁に走っている。侑志はさっと蒼褪めた。
 タッチアップ! 今から投げて間に合うか? 一塁走者も走っている。どうする。どこに投げたらいい?
 三石が侑志からボールを奪い取って二塁に投げた。桜原が捕ったがもう遅い。三塁走者生還、依然無死一・二塁のオールセーフ。
 ――やっちまった。
 侑志は呆然と左翼に立ち尽くしていた。
 もう七回。しかしまだ、七回である。

「なー永田、ファーストどうよー」
 更衣室は夏を目前に一段と狭く感じる。後ろを通り抜けざま、侑志は着替え中の永田に尋ねた。永田はアンダーシャツ(彼は暑くなっても長袖)から頭を抜きながら答える。
「どうもこうもないよ。八名川さんも朔夜さんもよくあんなサラッとやるよね」
「ファーストなんか、投手のフィールディングとそう変わんねぇだろ」
「ライトからレフト行っただけで凡ミスした新田君がそれ言う?」
「悪かった。この話やめよう」
 どうにか逃げ切ったとはいえ危ない試合だった。あまり思い出したくない。
 学校に戻ってから、侑志はレフト・永田はファーストの特訓を課せられた。どうやら一戦限りの思いつきではなく、継続的に複数のポジションをやらせるのが監督の方針らしい。事前に言ってくれたら心構えもできたのだが。
 侑志は自分のロッカーに辿り着く。隣では井沢(いざわ)が下着に手を突っ込んで尻をかいている。
「スラパンの蒸し方マジありえねーよな。オレあせもできやすいんだよ」
「それは気の毒だけどこんなとこでケツかくな」
 侑志はかゆみ止めの薬を井沢の服の上に置いた。桜原が私服の半袖シャツを羽織って眉をひそめる。
「新田って用意よすぎじゃない? 未来予知でもしてんの?」
「そんな大層なもんじゃねぇよ。中学んとき、どうしてもかきむしっちまうやつがいて――」
 侑志が説明を兼ねた思い出話をしようとしたちょうどそのとき。
「うーす」
 扉が開いて誰かが入ってきた。男子部員は全員ここにいる。監督が部室に顔を出すことはほぼない。消去法で言えば、いや、そんな回りくどい方法を使わずとも、視覚を素直に信じれば。
 真っ先に侑志、直後に井沢と永田、それに何故か坂野が絶叫した。
「ちょ、ちょ、さ、朔夜さん? なんっ、まだ着替えっ、てゆか、な、う、あ」
「もうやだ女子こわいよー! オレもう男子の国に帰るよー!」
「井沢君泣かないで、あとお尻しまって!」
「さ、朔夜さんたら大胆なんだから! そんなにオレの肉体美が見たかっ」
「坂野きめぇ」
「坂野さんうるさいです」
「え、オレだけ姉弟コンボ攻撃?」
 富島は悲鳴こそ上げなかったが、ばつが悪そうにポロシャツを被った。
 他の上級生は平然としている。 
「朔夜。ノックぐらいしろ、礼儀だ」
「一年坊まだウブだからなー」
 淡白に言う相模(さがみ)と、からりと笑う森貞。
 さーせん、と形ばかりの謝罪をして、朔夜は出て行くどころか中央の椅子に腰を下ろした。
「てめーら机の上に私物置くなっつってんだろがよぉ、捨てんぞ」
「待って~、そのヤンジャン兄貴のだから!」
「ごめんー、ちょっと置くだけのつもりだったんだよぅ」
 三石と岡本が慌てて机の上を片付ける。こっそり桜原も加わっている。実は都合の悪いプリントをここに置き去りにしているのだ。
 四つの机があらかた片付き三年生が出て行くと、朔夜は堂々と私物を広げ始めた。侑志は着替えのスピードを上げながら、こっそり朔夜の方を見る。あの数冊の本、大きさからして漫画だろうか? 全部カバーがかかっていて表紙は見えない。
「それ神崎(かんざき)さんのでしょ。裸の男子のド真ん中でソレ読むかぁ?」
 八名川が朔夜の隣の机に手をついた。下は着替えてあるが、上は半袖のシャツをだらしなく羽織っているだけだ。朔夜は全く動じていない。
「だって今ぐらいしか読むヒマないし。めぐのやつ、顔合わすたびに感想聞いてくんだよ」
「つか今のオレ、こいつと服装かぶってんじゃん。やっば。着よ着よ」
 八名川はげんなりした顔でボタンを留め始める。今の会話だけで、深く知らない方がいいことは理解できた。
 桜原が侑志に耳打ちしてくる。
「朔夜はああいうの買わないけど、貸されれば普通に読むよ」
「そんな情報いらない」
 侑志は即答した。八名川が朔夜の読んでいない巻を持ち上げて、あからさまに眉をひそめている。嫌なら見なければいいのに。
「こないだ腹黒教師じゃなかった? 今度は俺様社長かよ。どうでもいいけど、まさかコレ読みにきたわけじゃないっしょお?」
「まーさか。オメーの決めた当番表に従ってっだけだよ」
「あーそ。お勤めご苦労さんでございます、桜原社長。新田ちゃんご指名よ~。三番テーブル入って~」
「はぁ?」
 不遜極まりない声を出しつつ、侑志は慌てて身支度を整えた。まさかその……アレな漫画にお付き合いしろというのか?
 朔夜はにやりと笑って、藁半紙の粗末な冊子を振って見せた。
「楽しい楽しい活動日誌が回ってきたぞー。オジサンが手取り足取り教えてあげようなぁ」
「あ……ども」
 そういえば、一年生もつけろという話が出ていた。指導役が朔夜というのは初耳だが。
 ともあれ、曲がりなりにも『華の女子高生』がエロオヤジ風に言うのは勘弁してほしい。坂野も食いついてきてしまった。
「朔夜さん! 新田ばっかりズルいっ、オレだってテトリス」
「うるせぇバカ野。早く帰れ」
「バカ野だって」
「バカ野エロ(あき)?」
「早く帰ってくださいバカ野さん。目障りなんで」
「お先に失礼します、バカ野センパイ。行こう慶ちゃん」
「お、おつかさまですバ……坂野さん!」
「ぎゃーす!」
「みんなしてー! サカちゃんが可哀想だよぉ」
 嵐が過ぎ去ると、部室は桜原姉弟と侑志だけになった。
 朔夜に命じられて席に着く。四つある机のうち、入り口から見て右上の机で桜原弟が宿題をして、侑志は左下の机で日誌を書き、朔夜は侑志の右隣に座っている。
 朔夜の左手は余計な動線を描かない。侑志の左肘は人のいない方に曲がっている。右利きの桜原は向こう側。侑志は彼女がわざわざ位置を指定した理由に気付き、浮つきそうな口唇をぐっと引き結ぶ。
「さって、終わり。帰んぞー」
 朔夜が立ち上がったのを合図に、片付けて鍵を閉めた。平橋(ひらはし)に鍵と日誌を渡すのだが、あの先生に会いたくないと弟が言うので二人で行くことになった。
 朔夜がリズミカルに階段をのぼっていくのを、侑志はゆったりとしたテンポで追っていく。
 朔夜の上がり方は、小学校の頃女子がよくやっていた遊びに似ていた。三段、一度止まって、次が六段進む。
 ぐ・り・こ。ち・よ・こ・れ・い・と。
「前から思ってたけど、新田はガツガツしてないね」
 朔夜の後ろ姿からは真意が読めず、侑志は、はぁと言葉を濁す。
「どういうことですか」
「いろいろ。エース狙ってるわけでもなさそうだし、四番狙ってるわけでもなさそうだし。レフトも」
 三階に着いた朔夜が振り向く。顔の下半分と上半分で表情がちぐはぐだった。慈悲深さをにじませた微笑みと、嘲弄するような視線。
「何が欲しいの?」
 侑志は言葉を失くし、踊り場に立ち尽くしたまま朔夜を見上げていた。
 朔夜の閉じた口唇が、音なき問いを投げかける。
 どれが欲しいの? どれもほしいの? あのときみたいに傷つくのを怖がってるだけで、もしかして。
「本当は、欲張りなんじゃないの?」
 その台詞は果たして現実に彼女が口にしたものだったのか。
 侑志の手から日誌が落ちる。朔夜は笑みを消して侑志を見ている。今になって真価を値踏みするように。
「おー、何やってんだ君たちー」
 侑志ははっとして頭を上げた。四階から平橋が下りてくる。
「映ちゃん、カギカギ」
 朔夜は好機とばかり平橋に鍵を押し付ける。侑志はその間にどうにか日誌を拾った。平橋が近寄ってきて侑志の肩を叩く。
「ははは、ロミジュリごっこ?」
 この笑顔、教師でなければ殴り倒していたかもしれない。侑志は仏頂面で藁半紙の束を突き出した。
「おーう、日誌ね。あいあい、あいよー」
 平橋は雑な手つきでページをめくり、今日の活動報告欄にポケットから出した印鑑を押した。
「おーし、お疲れーぃ。気をつけて帰れよー」
 口笛を吹きながら去っていく。何故この時季にユーミンの『卒業写真』なのか、もはや選曲まで癇に障る。ああいう大人にはなりたくない。
「うし、帰るか。コータ待たしてっし」
 朔夜が駆け下りてくる。もう奇妙な雰囲気の名残はない。
 あの空気から救ってくれたという一点だけ、侑志は平橋に感謝した。