6話 Trickstir - 3/5

恋というちから

 今日も放課後は二年A組に集合。森貞のことも気になるが、今の最優先事項はテスト勉強だ。昨日いなかった一年も全員揃っている。
「あーっ、もう、むりーっ」
 井沢(いざわ)が両手で頭を抱えたので、侑志は机を横にずらした。左隣で大きな動きをされると肘に当たるのだ。
「なーマジでちょっと教えてくんない新田」
 井沢が悲愴な声で身を寄せてきた。侑志は離した机をまた近づける。
「何の科目やってんの」
「現社」
「お前それ教えんの無理だって。覚えろよ」
「いやだからぁ、覚えらンねーって」
 井沢は現代社会の教科書の上に突っ伏した。
「オレ、勉強ニガテなんだよぉ。高校だってさぁ、ホントは塩川(しおかわ)受けるつもりだったのに、いつもE判定だったからタカコーに下げて、それでもC判定でギリだったんだぜ」
 塩川高校は、この高葉ヶ丘高校から程近い所に建っている進学校だ。現在は共学だが、男子校だった頃の雰囲気を色濃く残している。環境としては井沢がそれまでいた馬淵学院(まぶちがくいん)に近いのだろう。あまりよい噂を聞かないので、侑志は志望校にしなかった。
「お前が塩川受かってたり、タカコー落ちてたりしたら、今こうやって一緒にいることもなかったってことだよな」
 侑志は右手で頬杖をつく。
 井沢だけではない、誰かが一人でも別の道を選んでいたら、この野球部の空気は違うものになっていた。単純に人数が減るからではない。何かが本質的に、決定的に、異なってしまっていたということなのだ。
「運命的じゃん?」
 背中を丸めたまま見上げてくる井沢。侑志は何か返そうと思ったが、その前に早瀬(はやせ)の声で遮られた。
「うるっせぇぞ一年、しゃべるんなら帰りやがれ!」
 侑志と井沢は、すみません、と首を縮めた。早瀬は舌打ちをして、それまで向いていた方に顔を戻す。朔夜がシャープペンシルの尻で額を叩いて悩んでいる。
 早瀬は左に朔夜、右に三石を置いて、両側の勉強を見てやっていた。朔夜は指導を受けながら、眉間にしわを寄せたり、ぱっと顔を輝かせたり、また口唇を尖らせたりしている。
 うっかり早瀬たちの正面に座ってしまった侑志は、一緒に教科書を覗き込むときの距離が近すぎやしないかとか、質問をするときの朔夜の声が甘すぎやしないかということばかり気になって、勉強が手につかないでいる。
「み、ついし! 寝んじゃねぇ」
 早瀬は身体を反転させて三石を叩いた。三石は机に上体を投げ出してほとんど動かない。いつもなら大騒ぎしているだろう仕打ちにも、ねてないです、とか細い声で答えたきり起き上がりもしない。
「ミツどしたの、調子悪い? 帰る?」
 岡本に背中をさすられても、不明瞭な返事で首を振っただけだ。
「レイジ、交代! オレもう数B飽きたわ」
 八名川が勉強道具をまとめ始めた。早瀬は不服そうな表情で八名川と席を替わる。八名川は三石の肩に手を置き、耳許で二言三言囁いた。三石はのそっと起き上がり、億劫そうに鉛筆を持つ。
 侑志も早瀬に睨まれる前に、勉強を再開した。
 分かりやすくまとめられた世界史のノートを、ルーズリーフに写していく。ノートの持ち主は深春だ。今朝いきなり呼び出され、多分出るのこの辺だからと渡された。ありがたい反面、なりふり構わないなぁと気の毒にも感じる。
 当の桜原弟を見遣った。計算が上手くいかないのか、ずっと難しい顔をしている。次に桜原姉を盗み見た。英文を上手く訳せないのか、じっと眉をひそめている。そっくりだ。
 何故ともなしに苦しくなって、侑志は急いで最後まで書き終えた。
「すみません。俺、ちょっとこれ返してきます」
 誰に言ったらいいのか分からなかったので、漠然と二年生の方を見ながら言った。あー、とか、おう、とかいう答えが各地から漠然と返ってきた。
 二年の各教室の前を通り過ぎて、中央階段を降りる。
 深春は恐らく図書室にいるだろう。礼は何にしようか。悪いが桜原を売る気は毛頭ない。あとで菓子か何か渡して勘弁してもらおう。しかし、何を買ったものか。年頃の女子に滅多なものを買うと、太らせたいのかと怒られはしないだろうか?
 心配しつつ二階で廊下を右に曲がる。胸に鈍い衝撃、驚いて見下ろせば人の頭。
「すみません!」
 侑志は蒼褪め、勢いよく離れようとした。痛い、と短い悲鳴。細い手が学ランの胸元をつかむ。
「待って。ボタンに髪が引っかかってるの」
 澄んだ声だった。耳の中を優しくすすいでいくような、やわらかく清らかな響き。
「少しだけ待ってね。今、外すから」
 侑志は口ごもって俯いた。
 目の前の小さな頭。サイドの髪を集めて、バレッタを使って後ろで留めてある。古風なヘアスタイルだなと思う。
 細い指が生地越しに胸に触れる。マネキンのように白くすらりとした手。朔夜の関節がしっかりした手とも、琉千花(るちか)の小ぶりでやわらかそうな手とも違う。動かし方に至るまで、女性らしいたおやかさに満ちている。
 にわかに速くなる鼓動を聞かれまいと侑志は息を止めた。相手の女生徒は下を向いたまま、まだボタンと格闘している。
「いやだ、取れないわ。ごめんなさい。急いでいるのよね」
「いえ、全然、こっちこそ、すみません」
 顔を背けた拍子に、先端の赤い上履きが侑志の目に飛び込んできた。
 ――ヤベぇ、どうしよう、三年生じゃん。
 一刻も早く立ち去りたくなった。しかし向こうの髪を解かないことには、下手に身体を動かすこともできない。侑志の焦りを感じ取ったのか、ちょっと待ってねと三年生は鞄から何かを取り出した。裁縫セットのようだ。糸切りばさみを抜き取って、髪の毛の半ばほどに当てる。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 侑志は思わず三年生の手首をつかんだ。女生徒が顔を動かす。真上を向くと髪が引っ張られてしまうのか、自分の肩の上を転がすよう首を傾け、斜めに侑志を見上げている。
 色素の薄い瞳の前で、長い睫毛が静かに瞬いた。滑らかな肌には、思春期の代名詞たるニキビの気配もない。漫画みたいだと思った。ドラマや映画よりも完璧な、絵に描いたような美少女。
 侑志は再び視線を逸らし、三年生の手を放した。
「切ったりしなくても、俺が取りますから。急いでなければ」
 深春のノートを脇に挟み、髪を外そうと試みる。思ったよりきつく巻きついてしまっていた。ぶつかった後、侑志が不用意に動いたせいだろうか。早く取ってやりたいのに、侑志の指ではボタンの隙間に上手く入っていかない。
 整った顔が自分の醜態を見つめていると思うと、侑志の手元はますますおぼつかなくなる。首から上にばかり血がいって、指先が冷たくなっていく。
 誰かが下りてくる足音。気配は侑志たちの真横で止まった。
「侑志。何やってるんだ、こんなところで」
「ノブさぁん」
 侑志は見知った三年生に涙声ですがった。説明せずとも、相模は一目で状況を把握したらしい。
「少し短くなってもいいですか」
 相模はぶっきらぼうに言い、女生徒に右手を差し出した。女生徒はあっさり糸切りばさみを手渡す。
「あまり気を遣わないでね」
「ええ。侑志も、ボタン取るからな」
 侑志はわけも分からないまま頷く。相模は刃先にボタン留めの糸を引っ掛け、躊躇なく切断した。添えていた左手に、金色のボタンと数本の髪が落ちる。被害はこれだけで済んだようだ。
「ありがとう。器用なのね、相模君」
 女生徒が微笑む。相模は眉をひそめて糸切りはさみを返す。
「気をつけてください。森貞がうるさいので」
「そうね。ごめんなさい」
 相模は彼女をそれ以上責めることはせず、矛先を侑志に向けた。
「侑志も。ぼーっと歩いてたんじゃないだろうな?」
「すみません」
「俺にじゃない。この人に謝れ」
 相模は顎をしゃくって三年生を指した。礼儀を気にした台詞の割に動きは雑だ。
 深々と頭を下げる侑志を、私こそ、と三年生は軽く許してくれた。
「あなた、野球部のユウシ君? はじめまして。私、月村雪枝といいます」
 その女生徒は、乱れた左側の髪を直しながら侑志に笑いかけた。
 ツキムラユキエ? 最近聞いた名だ。侑志が照合に手間取っていると、相模が厳しい声で告げた。
「月村さん。急いでたんじゃないんですか」
「いけない。竜を待たせてたんだわ」
 そこでやっと思い当たったがもう遅い。月村雪枝は短い挨拶を残して、立ち去ってしまっていた。
「何か訊きたいことあるんだったら、言えよ」
 相模は横目で侑志を睨んだ。ここで見え透いた嘘をついてもまた怒られるだけだ。
「ノブさん、何で同学年なのに敬語だったんですか」
 質問したが黙殺された。確かに、言えとは言われたが答えるとは言われていない。
「これは?」
 相模は腰をかがめて、床にあったものを拾い上げた。深春のノートだ。知らないうちに落としていた。
「俺の借りものです。今、ミハ――金城先輩に返しに行くとこで」
「あの人、後輩にまでミハルって呼ばせてんのか」
 相模は深春のノートをめくり、冷めた目で斜め読みした。
「返しとくよ。渡せばいいだけだろ」
「いいんですか?」
 侑志は顔を輝かせる。普段なら上級生に雑用など頼めないが、今はとても深春の相手をする気分ではないのだ。
 相模はかすかに表情を緩めた。
「ちょうど俺も図書室行くところだから。侑志は勉強会の途中だろ? いいから、早く戻りな」
「ありがとうございます」
 精一杯の感謝の意を示して、侑志は階段を駆け上がった。
 踊り場でふと気付いて、振り返る。
 あの人――月村さんって、森貞さんのカノジョさんだよな。何でノブさん、俺とあの人がしゃべるの強引に止めたんだ?
 平橋(ひらはし)を職員室に呼び出す放送がかかる。あの先生に会ったらまた面倒だなと、侑志は急いで二年A組の教室に戻った。

 結局、勉強には最後まで身が入らなかった。大人数でやると気が散って参る。
 朔夜は随分捗ったようで、帰り道も上機嫌だった。
「そういや、富島(とみじま)ってすっごい勉強できんだな。すっかり一年の先生じゃん」
 ん、まぁ、と富島は首の後ろをかく。あまり嬉しくはなさそうだ。
「学力落とさないのが都立高校に行く条件だったので。正直、高葉ヶ丘の授業進度に合わせていると国立現役は厳しいですし」
 朔夜が感嘆の声を上げた。同じ私立中出身の永田(ながた)は悔しそうだ。琉千花にいいところを少しも見せられなかったようだから。
「朔夜も見習いなよ。放っとくと宿題もやんないし」
 桜原弟が朔夜に詰め寄る。当の朔夜は涼しい顔だ。桜原はむくれて、他の面子に目を向ける。
「このひとねぇ、ホントにどうしようもないアホなんですよ。高校だって俺が入れてやったんだから」
「お前が入れた?」
 侑志が眉をひそめると、うんそう、と朔夜本人がけろっと答えた。
「学校の先生より皓汰のが分かりやすいんだ。文系の先生は全部皓汰」
「せっかく届いた通信教育の教材、積み上がってくばっかりでさ。しょうがないから俺が先に解いて、朔夜に噛み砕いて説明したんだよ。おかげで俺、自分の授業で起きてるの大変だった」
 桜原は口唇を尖らせた。確かに受験レベルの知識が定着していれば、中学校二年生の授業など退屈極まりないだろう。
「朔夜さん、何でそんなに勉強嫌いなんすか?」
 岩茂(いわも)組と話し始めた弟を置いて、侑志は朔夜に声をかけた。朔夜は前髪を指先でいじっている。
「嫌いってほどでもないけど。学校行って部活やって自主練して家事やったらもう時間ないしな。寝ちゃうよ」
「え、家事、って」
 そういえば母親の話を聞いたことがない。もしかして触れてはいけないことだったろうか。侑志が黙り込むと、あのな、と朔夜は呆れ顔をした。
「また変な想像してるだろ。親が共働きだと家の中が荒れるの。皓汰は本ばっか読んでて何もしないから私が食事とか作ってるだけ」
「そうなんです、か」
 答える声はいかにも頼りなかった。
 侑志の両親も共働きだが、家事は母がやってくれている。侑志も気まぐれに掃除などをすることがあるけれど、日常的に手伝っているとは言いがたい。
 朔夜が率先して家を守っていることも、それを武器に弟を黙らせなかった理由も、侑志の想像のずっと向こうにある。
「じゃあ、朔夜さん。僕らはこっちなので」
「失礼します。新田君も桜原君もまたね」
 富島と永田が離脱する。駅の方には緩やかな起伏があって、二人が頂点を過ぎて下り坂に入ると、侑志たちからはすぐに見えなくなる。
 富島は『国立現役』と当たり前の顔で言った。永田も、口にはしない目標のために特別な勉強をしているのだろうか。本をたくさん読むという桜原や、帰ったら家事をするという朔夜も、侑志とは違う時間の過ごし方をしている。
 よく顔を合わせる相手だから、一部分をとてもよく知っている相手だから、知らない面がよぎると不意に心細くなる。
「ミツさん。今日はどこで曲がるんですか?」
 桜原の声で我に返る。三石がいたことを忘れていた。いつもなら何かしら騒いでいるのに、自転車のタイヤが回る音しかさせていなかったのだ。
 三石はハンドルを握ったまま、ぼうと立っていた。
 侑志は高葉(たかば)四丁目に住んでいる。三石は一丁目だと言っていた。頃合いを見て道を折れていくはずが、今日は何故かここまで一緒にいる。
「曲がり忘れちゃった」
 三石は消え入るように呟いた。
 野放図な金のたてがみも、俯いた拍子にくてんと下を向く。横顔に傾いた光が注ぐ。後輩たちさえ呆れさせる無邪気さは鳴りを潜め、物憂げな色ばかり漂っている。
 少年と青年の間を不安定に揺れているはずの十六歳は、この瞬間、確かにその境を向こう側へ飛び越えていた。
「深春先輩に、会いたい」
 低く、深い声で発せられた言葉に、侑志は息を止めた。
 頭の中で浮いていた欠片が繋がっていく。
 三石が図書室に通いつめていたのも、深春の前では極端に無口になるのも、ここ数日やけに落ち込んでいるのも。
 全部、それが理由なのだ。
「ミツさんっ」
 侑志は思わず彼を呼んでいた。三石が顔を上げる。
 見慣れた表情になった一瞬を逃さないよう、侑志は一息にまくしたてる。
「あの、明日は俺ら、一年の教室でやります。先輩たちに教わってばっかじゃ悪いし、こっちはこっちで頑張ってみます。二年生だけなら、その――図書室で、できると思うんで」
「それがいいと思います」
 桜原が侑志に右腕にしがみついて激しく頷いた。先輩に協力しつつ自分は災厄から逃れられる、桜原にとってもこんなにおいしい話はないだろう。
 朔夜が笑いながら三石を小突いた。
「だってさ。甘えちゃえよ」
 短いまつ毛の奥の目を忙しなく動かして、三石は口ごもった。脱色した髪の先まで染まりそうに赤かった。
「オレ、帰るねっ」
 三石は出し抜けに甲高い声を上げ、自転車に跨る。黒いスラックスに包まれた脚と、チェーン側の裾をまくり上げた脚を交互に動かし、来た道をのろのろと走り始める。
 三石は途中で急に止まって、こちらを向いた。崩れた金髪が風で後ろになびき、輪郭が淡い陽射に溶け込んでいく。
「新田、ありがと!」
 喉を軋ませるような叫びを残して、三石は全速力で走り去っていった。侑志は目を細めて彼の後ろ姿を見ていた。
「よくやった」
 朔夜に後頭部を軽く叩かれる。
「八名川には私が言っとく。だから安心してみんなで勉強しな」
 侑志は左手でその箇所に触れる。血の通っていないはずの髪がひどく熱い。
 三石さんを動かしたあのちからは、いつか俺のことも変えてしまうのだろうか。この人のことも。
 そう思ったら胸が詰まって、何も言えなくなった。
 公園への道に折れる。
 並木の緑は少しずつ濃くなってきている。