2話 2nd Player - 4/5

目指す場所

 階段を上がっていたら、駆け下りてきた井沢と踊り場で衝突しそうになった。謝罪の言葉も忙しなく、井沢は両手をしきりに動かしている。
「あのっ、相模センパイにはやめとけって言われたけど新田もキャプテンも戻って来ねぇし、オレもうじっとしてらんなくて……! ああじゃなくて、ンなことはどうでもいいんだけどっ」
 ごめん、と叫んで、身体を二つに折る。あまりに深く下げているので前屈をしているように見える。
「オレいつも何も考えねぇでベラベラしゃべって余計なこと言って、誰かに嫌な思いさせちゃって毎回反省すんのに何で直せねぇんだろうって」
「井沢ぁ」
 見ていられない。侑志は親指で永田たちを指した。
「見たことあるんだよな。コイツらのこと」
「ある!」
 井沢は顔を真っ赤にして上体を跳ね上げた。
「去年! ゼンチューの東京準々決勝、七回表無死満塁!」
 二点をリードする馬淵学院中の攻撃。エース不在の岩茂学園はここまで既に二人の投手を使い切った。三人目は二者連続の四球に加えて、ノーストライク・スリーボールからのヒットを許し、たちまち満塁にしてしまう。打順は三番に回り、完全に試合は決まるかと思われた。
 そのとき現れた四人目の投手。味方にさえざわめきで迎えられた彼は、泰然とした足取りでマウンドに登った。ブルペンで投げていたときと何ら変わらない、落ち着いた投球練習。堂々と顔を上げ捕手を見つめる姿。ノーアウトもフルベースもクリンナップも関係ないように見えた。まるで先発のエースだった。
 彼はすぐにマウンドを降りた。
 投球数九。自責点〇。与四死球〇。奪三振数、三。
「すげぇ悔しかった。岩茂学園はどうしてこんな投手をここまで出さなかったんだろう、どうしてこいつはオレの打席の直前に降りちまうんだろう、って」
 ネクストバッターズサークルで立ち尽くす井沢のそばを、涼しい顔で通り過ぎたという少年は今、ここにいる。
「永田君、だよな? 岩茂学園中の永田慶太郎君だよな?」
 永田は頷くように、俯くように下を向いた。なんで、とかすれた声で呟く。
「僕のことなんて覚えてるの? 馬淵学院ならいろんな投手見てきたでしょ。もっとすごい投手、いっぱいいたはずなのに。中村君だって――」
「確かに中村は巧いよ。でも永田のがカッコよかった。上手く言えねぇけど、『すげー』の質が違うから、どっちの方がすげーとかじゃねぇんだ」
 井沢は即答した。静かな温度で、きっぱりと。
「中村とか永田とかの力をあんだけ引き出してた富島も、すげぇカッコよかった」
「勝者の余裕か? 心にもないことを言うなよ。負けた捕手はそんなに惨めか」
「あれはお前の負けじゃない。一人目は連投で制球が甘くなってた。後の二人は捕手を信じなかったのが悪い」
 富島の当てこすりにも、目を見て歯切れよく返した。次の反論を聞く前に井沢は笑い、右手の指を端から順に折り曲げる。
「新田だろ、永田だろ、富島だろ。こんなすっげーやつらと同じチームでやれるなんて、マジ夢みてぇ!」
「お前が言うと嫌味だ」
 富島が低く吐き捨てる。弱小区立の侑志からすれば、富島が言うのも充分嫌味な気がしないでもない。
 なんでだよ、と井沢は膨れ面をする。
「オレ、この高校来てホントよかったって思ってるんだぜ。野球やめてよかったーって」
 野球、やめて、よかったって。
 岩茂の二人が呆気に取られている前で、侑志は盛大に噴き出した。井沢が真っ赤な顔で小突いてくる。
「何で笑うんだよォ!」
「だって、おまえ、やめてよかったって」
「だってそうじゃん。一回やめたからお前らと野球できるんだろ?」
「ああ、そうだな、そうだよな」
 侑志は震えながら壁に頭を押し付ける。
 そうだよな。バカみたいにいじけて、強がって、放り出して。だから俺はここで野球ができる。こんなところで笑っていられる。
「笑いすぎだろ!」
 井沢が学生服を引っ張ってくる。つられたのか永田まで笑い出した。ついに井沢も笑み崩れ、富島の肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「富島も。キャッチャーとセカンドで二番同士だもんな。仲良くしようぜ」
「関係ない」
「じゃあ俺も二番手ピッチャーで仲間な」
 侑志は井沢たちの背を押して階段をのぼらせる。よく考えたら先輩たちを待たせているのだ。早く戻らないと。
 永田がとことこと横に並ぶ。
「僕は? 仲間外れ?」
「一番がいなけりゃ二番もいねぇだろ。お前はエースなんだから、俺について来い二番ども、っつって胸張ってりゃいいんだよ」
「新田君って結構言うこと乱暴なんだね」
 永田が呆れ顔をして、富島が今度こそ本当に笑った気がした。
 二階に着いた瞬間に相模が講義室から出てきた。鬼の形相だ。やばい、これは言い訳を聞いてもらえるモードだろうか。侑志は身を硬くする。
「あ、の、ノブさ……」
「侑志。見ろよ、これ」
 突き出されたのは携帯電話。森貞からのメールのようだ。件名はなし、本文は一行。
『迷っちゃった(・∀<)☆』 「殴り倒したいよな。殴り倒したくなってくるよな?」 「あ、の、多分、気を遣ってくれたんだと」  思うんですけど、と尻すぼみになる。よもや三年生にもなって、本当に校内で迷子にもなるまい。相模は笑顔をつくってみせたが、携帯を持つ手はわなないている。 「解ってる。でも解ってるからムカつくことってあるよな?」  返事のしようがなかった。  中で待ってろ、と相模は電話を耳に当てた。侑志は扉を押さえて三人を先に入らせる。人生の迷子になりたくなければ三分以内に戻って来いと背後で聞こえたような気もするが、きっと幻聴だ。 「相模センパイって、コワイの?」 「優しいよ。怒らせなけりゃな」  井沢に小声で言って後ろ手にドアを閉めた。監督には、森貞先輩は三分以内に戻って来るみたいですと伝えておいた。  二分後に全員が揃い、ミーティングが始まった。  翌日からは、井沢の待ち焦がれた外での練習だ。 「カントクー、井沢がリバースしましたー」 「片付けとけ」 「ゲロをですか? 井沢をですか?」 「両方だ」  先輩も監督も簡単に言うなぁ、と胸中でぼやき侑志は井沢を引きずっていく。木曜の放課後、雲は厚く夕陽は公園のグラウンドを照らすには至らない。 「チョー恥じぃマジだっせぇ」  井沢は右手で顔を覆った。侑志はため息をついて背をさすってやる。野球をやめたきり特別な運動をしてこなかったという井沢が、練習で遅れを取るのは仕方ない。  引退後も体力を持て余してロードワークだけは続け、引越しまでの数ヶ月間はプール通いまでしていた侑志。推薦入試で合格し、昨年度の冬から練習に参加していた桜原弟。一般入試で合格後、春休みから体づくりを始めていた岩茂組。四月末まで待って動き始めた一年は井沢だけだ。 「大丈夫、徹平もそのうち慣れるさ。吐くことに!」  森貞はぐっと親指を立てた。白い目を向ける侑志の横で、井沢が顔を輝かせている。 「はい、がんばります!」  吐くことをか。口には出さず、侑志は首を横に振る。  監督に呼ばれたので後は朔夜に任せ、侑志は森貞とその場を離れた。永田と富島もいる。指示されて、永田・侑志・森貞・富島の順で横一列に立つ。 「出来はどうだ?」  監督は投手を手で示して捕手に尋ねた。永田が平然としている隣で、侑志は肩を縮ませる。森貞が苦笑して侑志の尻を軽く叩いた。 「現時点ではどちらも試合には使えませんね。ブランクが結構きてます。でも永田は三月から準備してますし、新田は肩をつくるのが早いそうですから、最悪でも試験明けまでには何とかします」  監督は頷きもせずこちらを見ている。侑志は立っているだけなのに喉が渇いてくる。唾を飲み込んだら思ったより大きな音がして息が止まった。  監督が富島に視線を移す。富島は後ろで手を組み、背筋を伸ばしてはきはきと告げる。 「永田は本来の投球に戻りつつあります。無理はさせられませんが、この調子なら夏の大会でエースとして充分通用します。新田は現状まるで戦力になりません」  まるで、まで付けなくとも。侑志はいじけて下を向いた。永田が肘で小突いてきて、だいじょうぶだよ、と口唇だけで言う。  侑志は富島の顔を盗み見る。いつもながらふてぶてしい。 「成長期に長くピッチングから離れていたせいで、記憶と今の肉体が噛み合っていないんです。だからひどくバランスの悪い投球動作になっている。一刻も早いフォームの修正が必要です。彼抜きで、永田と岡本(おかもと)先輩だけで公式戦を乗り切るのは無理があります」
 侑志は声を失った後、熱くなる顔を富島から背けた。
 たった一回球を受けただけなのに、そんなにしっかりと見てくれていたのか。長々と悪しざまに罵っていたのに。
 永田はにこにこ笑っている。森貞がわざとらしい咳払いをし、侑志も一緒に慌てて表情をあらためる。
「どう使う?」
 監督の質問はいちいち簡潔だ。慣れているのか森貞に困惑した気配はない。
「永田は様子を見ながらでしょうね。エースを使い潰すわけにはいかないですから。新田は……そうですね」
 朔夜と同じがベストでしょうね、と森貞は首を傾ける。
 二年投手・岡本の本職は右翼手だ。彼が登板する際、ライトには本来一塁手の八名川(やながわ)が、空いた一塁には朔夜が入る。侑志は同じようにファーストにつかせるか、あるいは直接ライトに入ってもいいだろうということを森貞は言った。いずれにせよ完投はさせないつもりらしかった。
 富島も淡々と意見を述べる。
「ともかく新田は先発させるべきです。中盤以降、岡本先輩に引き継ぐかたちがいいかと。将来的には新田に完投能力をつけさせるのが理想ですが」
 え、と侑志は買ったばかりの野球帽をきつく握る。
 侑志に完投させるということは、つまり、永田には投げる機会を与えないということではないか。エースナンバーは彼のものだと公言しておいて、何を。
 侑志より先に監督が尋ねる。
「永田がエースでもか」
「そうです」
 富島は即答した。永田は何でもないような顔をしていたが、肩は震えていた。侑志は強く口唇を噛む。
 もういいだろ。それ以上言うなよ。頼むから。
 富島はあまりにも滑らかにその台詞を吐いた。
「永田のような博打じみた投手は、できる限り使うべきではありません」
 かっと身体が熱くなる。監督の前であることも忘れ、侑志は富島に詰め寄りそうになった。
 森貞に腕一本で止められる。
「なぁ彩人! 俺たちにも分かるように説明してくれると嬉しいんだけどな」
 やたらに明るい声で侑志は我に返り、すみませんと呟いて身を引いた。森貞はひらりと手を振ってから富島を見る。
 富島は先輩に対し、一片の遠慮もない舌打ちをした。
「新田は抑えには向いていません。メンタルの弱さ、制球の不安定さ、持ち球の少なさ、どれをとっても重大な局面を任せられる投手ではないことは明白です」
 ビハインドの、あるいはリードのプレッシャーに耐えることができるか。ヒット一本も許せない状況でも精確に投げることができるか。試合が進み目が慣れてきた打者に、どのような球で立ち向かうか。侑志が自信を持って答えられるものは確かに一つもない。
 富島は短く目を閉じて、それからしっかりと監督を見据えた。
「岡本先輩もそうです。経験・変化球の種類などは新田より優れていますが、精神的にあまりに脆い。永田も普段は決して強い人間ではありませんが、マウンドでは信じられないほど肝が据わっています。その落ち着きを裏付けるだけの実力を持っている」
「切り札の永田をむやみに使いたくはない。まだポジションの決まっていない新田を投手として仕上げられれば、永田と岡本の負担は最小限に抑えられる」
 そういうことか、と監督が問うと、そうですと富島は先程よりも力強く答えた。
 監督は目深に被っていた帽子を取った。右手で前髪を後ろへ撫で付ける。抑揚のない口調とは裏腹に、炎を宿したような鋭い瞳にどきりとした。怒っているときの朔夜の視線にそっくりだ。
「そうやって永田を温存して、お前はどこを目指すつもりだ」
 富島は臆することもなく、自信ありげに口唇を歪めた。
「貴方が僕らに目指させようとしているところ、ですよ」
 侑志にはさっぱり分からない。森貞が笑いながら侑志の頭をかき回す。
「全国だそうだ!」
 ぜんこく、と侑志は声を上擦らせた。永田も何も言わないから当然の顔をしているかと思ったら、見る限り呆気に取られているだけのようだった。
 監督は返事をせず視線を上に向け、帽子のつばで後頭部をかいていた。気のなさそうな口振りで呟く。
「まぁ調整がんばってくれ」
 この人は間違いなく桜原皓汰(こうた)の父親だな、としみじみ思った。
 練習に戻れ、と言われたので侑志たちは一礼してグラウンドの中央に向き直る。野手陣がベースランに励んでいる。井沢も朔夜も参加している。
 侑志は永田の背を軽く叩いた。
「ここに1番もらうんだな」
 小走りに列に向かう。うん、と永田がくすぐったそうに笑う。
「お前も10番もらうんだぞぉ!」
 森貞が侑志の背を平手で殴った。力が強すぎて息が詰まりそうになる。森貞は続いて、彩人は12だと富島のことも叩こうとして、触らないでくださいと避けられていた。永田と侑志はくっくっと肩を上下させる。
 全国、の意味をもう一度考えてみる。
 東京中の軟式球児を蹴散らして都の頂点に立つということ。同様に各地区を勝ち抜いてきた猛者と衝突するということ。そのレベルを現実に感じながらやってきた富島が口にするのだから、勢い任せの大言ではない。本気だ。
 昨日、永田にかけた言葉が真実味を持ち始める。甲子園に代わる場所が輝きを増し始める。
 目指すんだ。俺たちが、この足で。
「ダラダラするな、急いで行け!」
 監督の怒号が飛んできて、すみませんっと声量ばかりの謝罪を返し、侑志たちは仲間の元まで全力で走っていった。