2話 2nd Player - 3/5

バッテリーになってよ

「つまんねぇな、一発目の部活がミーティングなんてさぁ」
「いいじゃねぇか。ゆっくり挨拶できてよ」
「あー早く野球してえ! みんなのプレー見てえ!」
 侑志は掃除当番の桜原に代わり、井沢を第二講義室に引率している。
 月一でミーティングだけの水曜があると聞いてはいたものの、その日は侑志も初体験だ。井沢の手前、緊張を隠そうとはしてみるが、どこまで上手くいっているか。
 井沢は五階から二階まで、またほぼ一人でしゃべり続けていた。侑志が虚勢を張るまでもなかったのかもしれない。
 講義室にはまだ四人しかいなかった。森貞と相模の三年生二人と、例の岩茂バッテリーだ。
 森貞が大股で歩み寄ってくる。
「噂の新入生か! 主将の森貞だ」
「馬淵学院中出身、一年A組出席番号1番の井沢徹平っス!」
 明るく返す井沢のそばで、侑志は岩茂の二人に注意を向ける。富島は相変わらずこちらを睨み、永田はあからさまに目を逸らした。侑志からではなく、恐らくは井沢から。
 井沢が不意に顔を動かし、永田たちを見て黙った。そのまま長机の前まで早足で歩いていき、並んで座っている二人の前に立つ。
「岩茂学園のヒト?」
 はっきりと投げかけられた問いに、富島が血相を変えて腰を浮かす。永田は顔を伏せて富島を抑える。井沢は真面目な調子で言葉を継ぐ。
「オレのこと覚えてる? 馬淵学院の……」
 答えの代わりに永田は立ち上がった。
 唐突に、泣きながら。
「ごめんなさい、顔洗ってきます!」
 永田は机の間をすり抜けて部屋を飛び出す。侑志にぶつかった拍子に少しよろけたけれど、止まらず廊下を駆けていった。
「お前らはどこまで僕らの神経を逆撫ですれば気が済むんだ!」
 富島は両手で机を叩き、講義室から走り出た。
 残された井沢は青い顔で忙しく動いている。
「えっ、あっ、オレ、何か余計なこと――」
「やめとけ。君は事態をややこしくしそうな気がする」
 追おうとする井沢の腕をつかみ、相模は森貞に目配せした。森貞は肩をすくめて苦笑する。
「侑志は慶太郎の係だな。俺は彩人を捜してくるから」
 侑志の返事を待たず、ハイよーいどん、と森貞は部屋を出る。
「行ってやれ。俺たちは戻ってきたときのために待ってる」
 相模にやんわりと背を押され、侑志も廊下に出た。慶太郎って永田と富島どっちだ、と思ったがすぐ首を横に振る。どちらでもいい。先に見つけた方に声をかければいいのだ。
 富島は永田の後を追っただろう。永田は泣いていたから、人目につかない場所に行くはずだ。そうなるとトイレの個室が有力か。二階を覗いたが全部空だったので下に降りた。
 一階のトイレにも人はいない。いったいどこに、と辺りを見回し、今まで気付かなかった地下への階段を見つけた。
 こんなものがあったのか。一般生徒が立ち入ってもいいのだろうか? 階段の正面は壁で、何があるのかは実際行ってみないと分かりそうもない。
 迷ってから、唾を飲み込んで下り始めた。永田たちがいなければ引き返せばいいだけのことだ。
 窓がないせいか、地下は他の階よりもひんやりしていた。廊下を左に行くと、突き当たりに大きなガラス戸があった。入り口に『食堂』というプレートがついている。定時制があった頃の名残らしい。
 この中にはいないだろう。扉の前を横切り右の角を曲がる。
 急に空気が変わった。自分の足音を聞きながら薄暗い通路を行く。蛍光灯がチリチリと点滅し、『ボイラー室』のプレートが掲げられた右の壁からは鈍い機械音が響いてくる。手を添えた左側のコンクリートは、突き放すように冷たかった。手術で入院したときに歩いた、夜の病院みたいだ。
 ボイラー室横を通り過ぎると明るくなってきた。
 左右に五段ほどの階段とドア。いずれも『更衣室』のプレートが掛かっている。正面にプールに出るための扉があり、すりガラスから光が射し込んできている。
 永田はその一番上に座っていた。
 小高く狭い場所。三方を壁に囲まれ、独り背中に陽を浴びて。
「永田」
 声をかけると、永田はゆっくり顔を上げた。隣いいか、と侑志が問うと、ためらいがちに頷く。
 二人で同じ方を向いて座る。遠くでボイラーが低くうなっている。
「新田君がうらやましいな」
 永田が前ぶれなく呟いた。前を見たまま。
「うらやましい。身体が大きくて、バッティングも上手くて、球に勢いもあって」
「他人と違うとこ並べたって仕方ねぇだろ。野球なんて、全部一人でできるわけじゃねーんだから」
 永田の顔を見て、侑志は自分の口にした慰めがいかに無価値かを悟った。
「新田君。野球肩って知ってるよね」
 永田は哀れむような笑みを侑志に向けていた。自分の左手をゆっくりと右の肩甲骨辺りに回す。
「僕の腱、使いすぎて骨を剥がしちゃったんだって。笑えるよね」
 笑えない。口に出して否定することすらできずに、侑志は学ランの黒に覆われた永田の背を見つめる。
 陰になっている永田の頬で、一筋だけ光が浮き上がっていた。
「わかってるんだよ。自分が悪いんだから、君をうらやむ資格なんかないって。せめて、あっちゃんを中村君に返せればよかったって思うのに、それもできないで。どうしようもなくて」
 永田の右腕が伸び、指先が空を切る。陽に光る埃が、二つに分かれて緩やかに流れる。
「僕、行きたかったな。甲子園」
「俺も」
 侑志も左手で細かな輝きを乱した。
 行ってみたいと思っていた。目指してみたいと思っていた。マウンドでなくとも。背番号がなくとも。夏でなくとも。
 今はもう届かない夢だけれど。
「明石じゃ、ダメかな。永田は」
「規模が違うよ。比較にならない」
「だからって楽じゃねえだろ。必死こくだけの理由にはなると思うぜ」
 侑志は立ち上がり、永田の正面に回った。
「なぁ、難しいこと考えなくていいよ。好きだから戻ってきたんだろ。富島だって、甲子園よりお前との野球を選んだから、ここにいるんだろ。だったら目指す場所ぐらいあっていいじゃんか」
 笑って右手を差し出す。永田は顔を伏せて鼻をすすった。
「また途中で放り出すかもしれないよ。それでもいいの?」
「いいよ。足りない分は俺が投げる。それが俺の仕事だから」
 こちらから彼の右手を取る。肩引っ張んないでよ、と永田は侑志にもたれかかるように腰を上げる。
「ありがとう」
 切り取られた日光、ボイラーの重い音。
 永田はもうこの場所に留まらないだろう。彼が目指すのは、容赦ない陽射と熱い声援を浴びる球場だ。

 永田がトイレで顔を洗うのを待っていたら、下駄箱の向こうから富島が姿を現した。もしかしたら、ずっとそこにいたのかもしれない。
「何の話をしたんだ?」
 富島は壁に寄りかかって両腕を組んだ。侑志はため息をついて首の後ろをかく。
「永田は富島のことすげー考えてるって話」
 汚物を見る目を向けられた。あんなにべったりなのに他人に言われるとその態度なのか。
 侑志は鎖骨の辺りに指を落とし、無理に話題を変えた。
「あのさぁ、富島。ひとつ訊きたいんだけど」
 富島は返事をしない。突っぱねないということは、答えてくれる気はあるのだろうか。質問を継ぐ。
「お前にとってのエースが永田なら、中村って何だったんだ?」
「随分意地の悪い質問だな」
 呟く富島の口調に刺々しさはなかった。視線を外しながらも侑志の問いに答えをくれる。
「嫌いじゃなかったよ。個人的にはな。ただ投手としてはどうしても好きになれなかった」
「正捕手なのに?」
「そうだな。それが間違いだった」
 間違い、と口にするとき富島はまっすぐに侑志を見た。しかし呼んだのは侑志の名前ではない。
「何か言いたいことあるんでしょう。慶ちゃん」
 富島の背後、階段の陰からばつの悪そうな顔をした永田が現れた。永田は富島の数歩後ろまで歩み寄り、あっちゃん、と小さく呼びかける。富島は振り返らず口唇を噛んで俯いた。
 永田は姿勢を正して富島の背を見つめていた。
「野球部の見学に行こうって言われたとき、本当は乗り気じゃなかったんだ。僕は、あっちゃんがときどき受けてくれれば充分だったから」
 狭いグラウンド。不足した用具。まともに試合の成立しない部員数。恵まれた設備と熾烈なレギュラー争いの中で野球をしてきた永田の目には、高葉ヶ丘はどのように映ったろうか。
 永田はもう一歩富島に近づいた。
「でも先輩たちを見てて思ったんだ。『頑張る』と『楽しくない』って、イコールじゃないって。僕、もう一度野球を楽しみたいなって思えたから――だから」
 富島の肩がびくりと跳ねる。永田は後ろから富島の左手を握っていた。自分がボールを投げる手で、富島がボールを捕る手を包んでいた。
「もう一度バッテリー組もうよ。ちっちゃい頃みたいに。それでさ」
 次に永田は、左手で侑志の左手を取った。目を丸くしているうち、二人の手に侑志の利き手が重ねられる。
「新田君ともバッテリーになってよ。僕一人じゃ投げ切れないから」
 ね、と笑いながら永田は両手に力を込めた。
「僕は一人じゃ勝てないけど、二人がいてくれるなら、負ける気がしない」
 富島は沈んだ顔をして永田には答えなかった。舌打ちの対象は侑志だ。
「慶ちゃんの勝ちを潰したらお前も潰すからな」
「頑張るよ」
 侑志は苦笑して頷いた。富島は少し笑い返してくれたのかもしれない。じゃあ仲直りのあくしゅーなどと永田が言い出したせいで、真偽はすぐうやむやになった。
 にわかに外が騒がしくなる。ランニングロード(という名のフェンスと植え込みの隙間)を走っていた陸上部が帰ってきたようだ。
 永田は曇りのない笑みを浮かべた。
「戻ろっか。遅刻、一緒に怒られてよね」